湯飲みの横に防水機能のない日記

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「鎌倉殿の13人」(10)根拠なき自信(歴史音痴と大河ドラマ)

「鎌倉殿の13人」の第十回、「根拠なき自信」を視聴した。

 

源義経は平治元年(1159年)の生まれだという。治承四年(1180年)に兄頼朝と再会したときの年齢は、二十歳ちょっと過ぎだろうから、長寛元年(1163年)生まれの北条義時より、ちょっぴり年上ということになる。

 

年下のはずの義時のほうが義経よりも若干大人びて見えるのは、してきた苦労の性質の違いもあるのだろうけど、持って生まれた性格が大きいように感じられる。そんな演出だった。

 

そんな義経が、性格的に多岐にわたってヤバい要素を抱えていることが、ドラマのなかでどんどん露出しはじめる。

 

空気を読まず、他人の思惑に疎い。

一途である反面、我慢がきかない。

なによりまずいのは、軍略の天才であるところだろうか。

 

史実での成り行きを知らなくても、このままでは目上の者たちに嫌悪され、立場の近い者たちからは嫉妬され、都合よく使い捨てられて終わる運命が透けて見えてきてしまう。

 

今回は、序盤で頼朝や北条の人々の前に立ちはだかった大庭景親の退場回でもあった。

 

大庭景親たちは石橋山で頼朝を窮地に追い込んだにも関わらず、平維盛の率いる追討軍が、時政が驚かせた水鳥のせいで何もせずに逃げ帰ったために、八方ふさがりになって捕縛されてしまう。

 

治承四年十月二十三日条

 

大庭三郎景親、遂に以て降人と為り、此の処に参る。即ち上総介広常に召し預け被る。


(中略)

此の外、石橋合戦の余党、数輩有りと雖も、刑法に及ぶの者、僅かに十の一かと云々。


【現代語訳】

大庭三郎景親は遂に降参人となって、この場所に参った。(景親は)そのまま上総広常に(身柄を)預けられた。


(中略)

このほか、石橋山の合戦の(敵方)の余党は多くいたが、処罰されたものは、僅かに十人に一人ではないかという。

 

吾妻鏡」(角川ソフィア文庫)からの引用

 

石橋山の戦いの初日が治承四年八月二十三日で、大庭景親が捕まったのが十月二十三日。たった二か月で、多くの関東武者の運命が激変逆転したことに、改めて驚く。

 

ドラマでは、大庭景親は、だいぶカジュアルな感じで千葉広常に斬首されて、たった一人だけ首をぶら下げられていた。ほんとうはどうだったのだろう。

 

角川ソフィア文庫版の「吾妻鏡」は抄録であるからか、大庭景親の処刑についての記述が見当たらなかった。

 

家にあった「平家物語」上(角川文庫)をざっと探してみても、景親が石橋山の戦いの経緯について早馬で福原に書き送った書簡の引用はあったものの、最期についての記述はないようだった。

 

そのかわり、文覚という僧侶についてのエピソードがたくさん出ているようだった。

ドラマの中の文覚は、だいぶ胡散臭い人物のようだったけど、平家物語ではどうなのか。

 

「文覚荒行の事」という章段の冒頭に、こんなことが書いてあった。

 

しかるに、かの頼朝は去んぬる平治元年十二月、父左馬頭義朝が謀反によつて、すでに誅せらるべかりしを、故池の禅尼のあながちに嘆き宣ふによつて、生年十四歳と申しし永暦元年三月二十日の日、伊豆の北條蛭が小島へ流されて、二十餘年の春秋を送り迎ふ。年頃もあればこそありけめ、今年いかなる心にて、謀反をば起こされけるぞと云ふに、高尾の文覚上人の、すすめ申されけるによつてなり。

 

なんと、頼朝の挙兵は文覚にそそのかされて起こしたことになっていた。

 

 

「鎌倉殿の13人」では、義朝のものだというしゃれこうべを持って伊豆の頼朝のところに押しかけてきた文覚を、頼朝がそっけなく追い返していた。

 

吾妻鏡」(角川ソフィア文庫)でも、頼朝の挙兵に文覚が絡んでいるような話は見えなかった。

 

でもWikipediaの「文覚」のページを見ると、「平家物語」のほか、「玉葉」(九条兼実の日記)、「愚管抄」(兼実の弟である慈円の日記)に、本人のろくでもない人柄や、頼朝との絡みなどが書かれているのだという。ちょっと興味深い。

 

上で引用した角川文庫版「平家物語」は、昭和三十三年初版で、うちにあるのは「昭和五十六年七月三十日 三十三版発行」となっていて、いま出ている本とは表紙も違っている。たぶん亭主が大学に入学した年に買った本だと思う。

 

当時の文庫本はあまり紙質がよくないのか、日に当てたわけでもないのに紙面が焼けたように茶色くなってしまっている。でも、まだ十分に読める。いい機会なので、ドラマの進行にあわせて、ときどき開いてみようと思う。

 

( _ _ ).。o○

 

今回は、ひさびさに食べ物の映像が多めに見られた。ヾ(〃^∇^)ノ

 

歴史上の食べ物に目がない私としては、ヒリヒリと胃の痛みそうな人間模様よりも、そちらのほうが気になって、凝視してしまった。

 

義時が、鎌倉の御所の厨で働く八重に差し入れした、草餅ときのこ。

どちらも全く喜ばれていなかったばかりか、カチンコチンの草餅を持て余した八重からあずかって食べた三浦義村が、腹を壊していた。カビでも生えていたのだろうか。

 

義時と政子の妹の実衣が、おいしそうにつまんでいた、ドライフルーツと、ナッツ類。

中くらいの梅干しほどのサイズの赤い実は、棗(なつめ)だろうか。

麦チョコほどのサイズの橙色の実は、クコの実に見える。

オレンジ色の実は、ビワだろう。

 

ナッツ類は、色の濃い大きめのものと、白っぽい小さめのものの二種類が見えた。

小さいほうは松の実だと思うけれども、大きめのほうの形がよく見えない。

 

気になって亭主に聞いたところ、平安末期によく食べられていたナッツっぽいものとしては、カヤ(栢、榧)の実がよく知られていたという。

 

それらの実が食べられていた記録はないのかと亭主に聞いてみたら、東京大学史料編纂所のホームページに、大日本古記録(明治以前の主要な日記を校訂出版したもの)のフルテキストのデータベース検索ができるサービスがあると教えてもらったので、さっそく行ってみた。

 

https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/

 

まず、棗(なつめ)。

 

貞信公記

延長3年3月17日

《服薬》十七日、己酉、供百延命、鍾乳、大棗服十九[丸]

 

『貞信公記』(ていしんこうき)は、関白太政大臣藤原忠平の日記。

藤原 忠平(ふじわら の ただひら)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。

 

「鍾乳」というのは、炭酸カルシウムを主成分とした石で、薬として服用されていたらしい。

 

中国では、棗は女性のアンチエイジングに効果があるとされ、古くは楊貴妃も愛好し、現代でも女性たちに積極的に食べられているのだとか。きっと日本にも古来から効能が伝わっていたのだろう。

 

調べていたら、食べてみたくなったので、Amazonで売ってないか調べてみたら、あった。

 

 

無農薬、化学肥料不使用のドライ棗が、一袋500gで2,490円。

ふむ。

 

クコの実は、中華料理の食材コーナーでよく見かけるし、中華粥のトッピングとしても親しみがある。お肌の健康を保つビタミンB系が豊富とのことだから、こちらも女性に愛好されそうだ。

 

 

 

だけど、古記録フルテキストデータベースでは、枸杞(クコ)の実は食用ではなく「沐浴用」に使われていた。

 

後二条師通記

寛治4年10月29日

 

廿九日、庚申、〈滅、〉天晴、枸杞湯沐浴之、依忠康(丹波朝臣申所【揚】

 

 

「後二条師通記」を書いた藤原師通(1062年~1099年)は、平安後期の関白だった人。
Wikipediaの記事によると若いころから身体が悪かったらしい。健康対策で枸杞のお風呂に入っていたのだろうか。

 

入浴剤として使うよりも、食べたほうが効きそうな気がするけど、どうなんだろう。(´・ω・`)

 

 

小右記

長元5年11月26日


食五菓、〈松実・栢・栗・干棗・柘榴、〉中納言陪膳

 

小右記」は、平安中期の公卿藤原実資(957年~1046年)の日記。

 

松の実、カヤ(栢)の実、栗、ナツメ、ザクロ。

鮮やかな色どりが目に浮かぶ。

 

 

カヤの実は、Amazonでも販売されていた。

200gで1,512円。アーモンドよりはだいぶお高い。

 

ドラマのなかで実衣さんがつまんでいたお皿のように、古くから食べられていたドライフルーツやナッツ類をいろどりよく盛り合わせて、いつか食べてみたいものだ。

 

「鎌倉殿の13人」歴史音痴と大河ドラマ