湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

ねこたま日記(5月22日)

こんにちは。

 

f:id:puyomari1029:20260523131036j:image

 

(昨日の日記)

 

昨夜は末っ子に「ユダヤジョーク」の本を音読してもらって、笑って爆睡。笑うとよく眠れる。睡眠導入剤より効くし、安全。脳神経に、たぶんそういうメカニズムがあるのだろう。

 

(_ _).。o○

 

枕元に正岡子規の「飯待つ間」(岩波文庫)があったので、なんとなく開いてみたら、目に飛び込んできたフレーズがあった。

 

人間は皆一度ずつ死ぬるのであるという事は、人間皆知って居るわけであるが、それを強く感ずる人とそれほど感じない人とがあるようだ。

 

正岡子規「死後」冒頭

 

この本を読んだのはもう随分前だから、記憶がだいぶ薄れている。この随筆も思い出せなかったので、読み進めてみた。

 

或人はまだ年も若いのに頻りに死という事を気にして、今夜これから眠ったらばあしたの朝はこのまま死んで居るのではあるまいかなどと心配して夜も眠らないのがある。

 

そうかと思うと、死という事について全く平気な人もある。

 

君も一度は死ぬるのだよ、などとおどかしても耳にも聞こえない振りでいる。

 

要するに健康な人は死などという事を考える必要もなく、また暇もないので、ただ夢中になって稼ぐとか遊ぶとかしているのであろう。

 

正岡子規「死後」

 

かすかに読んだ記憶が蘇ってきた。

続きをさらに読む。

 

余の加き長稿人は死という事を考えだすような機会にも度々出会い、またそういう事を考えるに適当した暇があるので、それらのために死という事は丁寧反覆に研究せられておる。

 

しかし死を感ずるには二様の感じようがある。一は主観的の感じで、一は客観的の感じである。

 

そんな言葉ではよくわかるまいが、死を主観的に感ずるというのは、自分が今死ぬるように感じるので、甚だ恐ろしい感じである。

 

動気が躍って精神が不安を感じて非常に煩悶するのである。これは病人が病気に故障があるごとによく起こすやつでこれ位不愉快なものはない。

 

正岡子規「死後」

 

こんな文章を読むと、父を救急搬送した日のことを、嫌でも思い出してしまう。

 

実家の廊下で崩れ落ちるように倒れた父は、私が背後でしっかり支えているのに、まるでそこから奈落へ滑り落ちそうになっているかのように、酷く動揺して、か細い悲鳴を上げ続けていた。

 

救急外来で検査や処置を受け、ストレッチャーで病棟に運ばれて行くときには、すでに動かしにくくなっていた右腕を持ち上げて、虚空をしきりに指差しひながら、何かに向けて激しい怒りの声を上げようとしていたようだけれど、私に視線が会うことはなく、すでに呂律も回らなくなっていて、声もうまく出せなくなっていたから、意図を汲むことは難しかった。けれども、とても入院したくなかったことだけは察せられて、どうにも申し訳なく、比喩でなく胸が潰れるようだった。

 

あの日、父は、どれほど恐ろしかったことだろう。

 

子規の続きを読んだ。

 

客観的に自己の死を感じるというのは変な言葉であるが、自己の形体が死んでも自己の考は生き残っていて、その考が自己の形体の死を客観的に見ておるのである。

 

主観的の方は普通の人によく起とる感情であるが、客観的の方はその趣すら解せぬ人が多いのであろう。

 

主観的の方は恐ろしい、苦しい、悲しい、瞬時も堪えられぬような服な感じであるが、容観的の方はそれよりもよほど冷談に自己の死という事を見るので、多少は悲しい果敢ない感もあるが、或時はむしろ滑稽に落ちて独りほほえむような事もある。

 

「死後」

 

入院した翌日、怒りを真正面から受ける覚悟で、病室の父を見舞った。

 

父は怒ってはいなかった。

静かな顔で横たわったまま、私にしっかりと視線を合わせ、唇の動きで、

 

「た す け て」

 

と伝えてきた。

 

いま思うと、父はあの日にはもう、客観的に、間近に感じる死に向き合い始めていたのかもしれない。

 

肺炎の入院治療が必要なことを伝えると、父は小さく頷いて、それ以降、「たすけて」とは言わなかった。

 

合わせて、私自身が免疫不全で死にかけた時の記憶も蘇ってきた。

 

全身を粉砕されるような痛みの合間、気絶しては覚醒するというのを繰り返しながら、真っ暗な嵐の海に浮かぶ小舟の船底に横たわり、この下はきっと底なしの奈落なのだろうと思っていたのを覚えている。あ、死ぬかな、と思ったことも。恐怖よりも、今死ぬのはまずいなー、なんとか助からないものかなーと、やけに冷静に、頭上に何個もぶら下がっている、樽のように大きな点滴液の容器を眺めていた。主観的恐怖のフェーズをすっ飛ばして客観的な向き合いに進んだのは、たぶん心の底では自分が死ぬとは思っていなかったからかもしれない。

 

子規は上に引用した文のあと、自分の死後に棺桶に入った場合や、土葬や火葬になった状況での心境を、思い巡らしている。

 

子規の墓は、田端の大龍寺にあるのだそうだ。

てっきり漱石と同じ雑司ヶ谷霊園だと思っていた。子規は静かなところに葬ってほしいと希望していたそうだから、死者人口の多い雑司ヶ谷は嫌だったのかもしれない。

 

 

(_ _).。o○

 

午後、実家のガスの契約者名義変更を終えて、これで電話、ネットとライフライン関連は全部終了!と、ホッと一息ついた。

 

母の前の病院での入院費とレンタル品の請求書が届いていたので、銀行に行って支払った。

 

昔から、銀行や郵便局の振込用紙の書き込みが超苦手で、毎度何枚も書き損じを出すのだけど、いつのまにか銀行が進化していて、記載台に設置された端末に振込先などの情報をぽちぽちと入力すると、用紙をプリントしてくれるシステムになっていた。

 

これなら私でも書き間違えずに提出できると喜んだのも束の間…

 

プリントされた振込用紙に空欄があって、受取人の人名を書くようにと指示があったので、病院から届いた請求書にあった理事長さんの名前を書いて窓口に提出したら、

 

「あー、これ、書かなくてもよかったです」

 

と言われ、二重線で消すのもアウトということで、結局もう一度プリントし直しとなった。二度目は窓口の人が「こちらのご案内不足のせいですから」と、全部やってくれたけど、大変申し訳なかった。

 

(_ _).。o○

 

もうずっと、睡眠導入剤なしで入眠できている。

昨夜に引き続き、末っ子に音読をお願いした。

 

読んでもらったのは、嵐山光三郎「超訳 芭蕉百句」(ちくま新書)

 

 

最初っから、話の雲行きが怪しかった。

 

「鞍馬天狗」といえば、大佛次郎原作の映画で嵐寛寿郎が演じる「鞍馬天狗のおじさん」が、覆面をつけて馬に乗り、杉作少年を救ける活劇を思いおこすが、もとは山伏(天狗)と稚児(牛若丸)の恋を題材とした能である。少年愛がテーマである。

 

「超訳 芭蕉百句」 第1章 伊賀の少年は江戸をめざす

 

芭蕉が「そっちの人」であったという説は知っていたけど、そっちとは無関係な「春やこし年や行けん小晦日」という俳句の解題で、なんでわざわざこんな話を匂わせるのだろうねと呟きつつ、続きの音読を末っ子に促すと、すぐに著者の意図が明らかになった。

 

蝉吟は、草ほうぼうの城址のふもとにある下屋敷でうつうつと過ごしていた。

 

夏になれば狸が鳴くばかりの屋敷で、宗房とふたりっきりで連吟することしか楽しみがない。

 

さぞかし濃密な時間であったろう。

 

芭蕉の生涯にわたる衆道好みは、この時代にはじまった。

 

「超訳 芭蕉百句」 第1章 伊賀の少年は江戸をめざす

 

蝉吟というのは、若き芭蕉が近侍役として仕えていた藤堂良忠の俳号で、芭蕉と蝉吟は、お互いの恋情を俳句のなかに赤裸々に残しているという。

 

のち、季吟の長男湖春が編集した『続山井』(春部)には、

 

地をするは根乱れ髪の柳哉  蟬吟

 

あち東風や面々さばき柳髪  宗房

 

が出てくる。

 

乱れ髪の柳は、蟬吟と宗房の仲を連想させるに十分だが、当時の武家社会にあっては衆道は美徳とされていた。『続山井』は蟬吟が没した翌年の寛文七年(一六六も)の刊行である。

 

「超訳 芭蕉百句」 第1章 伊賀の少年は江戸をめざす

 

…もしかすると、「奥の細道」も「おっさんずラブ吟行録」だったりするんだろうか。いや別にそれでもいいんだけども。

 

それにしても、松尾芭蕉が若い頃に最愛の人に死なれていたということは、これまで、どこかつかみどころのない印象だった芭蕉の人物像や作品から、人間らしい気配を読み取る手がかりになりそうだ。

 

芭蕉の句は、有名なものは、なんだかよく出来た広告映像のキャッチコピーみたいで、なんとなく親しみを感じられなかったのだ。

 

そういえば、「連句アニメーション 冬の日 松尾芭蕉七部集より」という映像作品があるそうだ。機会があれば、見てみたい。

 

 

 

 

ねこたま日記(5月21日)

こんにちは。

 

f:id:puyomari1029:20260522092608j:image

 

昨日(5月21日)の日記。

 

6時ごろに目が覚めたけど、どうにもだるいので、7時ごろまで布団の中にいた。

 

8時前に朝食。どっさりのサラダと、ソーセージ、チーズトースト、コーヒー。亭主作。ありがとう🩷

 

息子(28歳・重度自閉症)は介護施設通所、亭主は出勤。

 

末っ子は、今日は大学のない日だそうで、昼前まで寝ていたのだけど、手の蕁麻疹がひどくなってきたので、ネットで、ショッピングモール内の皮膚科の予約を取ったという。

 

診察順が近づいてきたところで、車で病院に送り届け、終わるまでショッピングモールを散歩して待っていた。

 

2ヶ月離れている間に、ショッピングモールのお店がガラリと変わってしまっていた。お気に入りだった書店も、もうすぐ閉店してしまうという。

 

診察と薬の処方が終わったら、午後2時半近くになっていたので、カフェでランチを食べた。

 

f:id:puyomari1029:20260521173710j:image

 

その後、閉店間近の書店を眺めてから帰宅。

 

末っ子は読みやすそうな「日本霊異記」の現代語訳(三浦佑之)を買っていたので、そのうち借りて読もうと思う。うちには講談社学術文庫版の「日本霊異記」もあるのだけど、なぜか年中散逸しているから、まともに読めた試しがない。😱

 

 

帰宅後、電力会社に電話して、実家の契約の名義変更の手続きをした。口座変更の手続きが完了するまでは、振り込み用紙を送付するとのことだったので、私の自宅に送ってもらうように頼んだ。

 

ライフライン関係は、あと、ガスと水道が残っている。一つづつ片付けよう。

 

晩ご飯は、クリームシチューと、サラダ。亭主は会議で帰りが遅いので、息子、末っ子と3人で食べた。

 

 

ねこたま日記(5月20日)

こんにちは。

 

f:id:puyomari1029:20260521101316j:image

 

写真は、実家の庭。

 

(昨日の日記)

 

よく寝た。

 

日付の変わる前に寝て、3時ごろ一度目が覚めたけど、強引に寝直して、次に目覚めたら6時だった。合計で7時間ほど眠れている。近頃の平均睡眠時間は4時間前後になっていたから、7時間は快挙と言える。呼吸器(CPAP)もしっかり装着できていたから、頭痛もない。素晴らしい。

 

(_ _).。o○

 

枕元のFire Maxくんに、「Alexa、おはよう」と挨拶したら、

 

「おはようございます。今日は、ガチ勢の日です」

 

と返された。

 

5月20日で、5×20=100で、「100%」だから、「ガチ勢の日」なんだそうだ。誰が決めたんだか。

 

なんて思ってたら、亭主が、「昔、そのうち『マジ』が『ガチ』に代わるっていう論文書いたけど、当たったな」とか言い出した。そんなの書いてたのかと思ってGoogleさんに聞いてみたら、東日本大震災の頃に出た本に掲載されているらしい。あとで探して読んでみよう。

 

(_ _).。o○

 

末っ子は、実家に滞在していたときの疲れがなかなか抜けない様子で、時折微熱を出したりしていたけれど、今日は大学の卒業アルバムの撮影があるとかで、げんなりした顔で出かけて行った。

 

細身の黒いスラックスに白いシャツ、ネクタイをハーフウィンザーノットに結んで、黒っぽいジレを無造作に羽織っていて、実に男らしいのだけど、末っ子の大学は女子大である。「卒アルなのに、そんな格好でいいの?」と聞くと、

 

「どーでもいいんだ卒アルなんか。正直いらねー。ゼミの先生と一緒に写るなら欲しいけど、そうじゃないっていうし」

 

とのこと。ネクタイは、父の遺品として貰ってきたのを使ったようだ。

 

「おじいちゃんのネクタイ、素敵な柄のがたくさんあるから、ずっと大事に使わせてもらうよ」

 

と言っていた。きっと父も、苦笑いしつつ喜んでくれると思う。

 

(_ _).。o○

 

そういえば、私も自分の大学の卒業アルバムを見た記憶がない。たぶん買わなかったのだろう。同窓の亭主にも聞いてみたけど、「記憶にないな」とのこと。学生時代の写真は、自分たちで撮って焼き増しして配りあっていて、十分すぎるほどあるから、わざわざ高い卒アルを買う必要はないと、当時の私たちは思ったのかもしれない。

 

でも今は、あってもよかったかなとも思う。

きちんと製本されたアルバムのなで、若い頃の恩師や同期の学生たちの顔を眺めながら、亭主とあれこれ話すのも、きっと楽しかったに違いないから。

 

末っ子の卒アルは、こちらでお金を出して買って、ちゃんとおいてもらおう。四十年後に絶対笑えるはずだから。

 

(_ _).。o○

 

午前中は特に出かける用事がなかったので、自宅に送ってもらっていた、父の企業年金手続きの書類を出して、記入しはじめたのだけど、注意書きに、「基礎年金の遺族年金証書のコピーを必ず同封してください」とあった。

 

基礎年金の手続きは、来月中旬に年金事務所を予約してしていて、そこで行う予定になっている。手続きが終了して遺族年金証書が届くのに2ヶ月はかかるらしい。後回し決定である。

 

それで、NTTの名義変更をやることにして、手続き方法を検索すると、手続きがオンラインで簡単にできるというページがあったので、そこで実家のデータを入れてみたのだけど、何回やっても「お客様の情報が見つかりません」と言われて、先に進まない。

 

そこで、フリーダイヤルの相談窓口に電話をかけてみると、自動音声で対応され、オンライン手続きのできるURLが記載されたショートメールが送られてきたのだけど、そこでも実家のデータは見つからないと言われた。

 

仕方がないので、NTTのホームページから、名義変更のための書類(PDFファイル)をダウンロードして、自宅のプリンターで印刷し、書き始めたのだけど、記入必須となっている項目の中に、フレッツ光のIDというのがあって、実家から持ってきた書類や書付のどこにも、その記載がない。

 

どうにもならないので、「人間」が対応してくれる電話窓口を探してかけてみたら、混雑しているようで、20分ちかく待たされたものの、なんとか繋がったので、名義変更の件で相談があると伝えると、またしてもオンライン手続きのページを紹介されそうになったので、

 

「そこで10回は試したんですけど、データが無いって言われたんです」

 

と言うと、父の名前と電話番号で、あっさりデータを見つけてくれた。フレッツ光のIDとやらも、データに紐づいていて分かるので、記入不要とのことだった。

 

あとは、今後の書類送付は実家ではなく私のところにしてもらう方法などを丁寧に教えてもらって、問題解決したので、お礼を言って電話を切った。

 

その後、書類を書いて、母のマイナンバーカードと父の死亡診断書を添付して封筒に入れ、コンビニで切手を買ってポストに投函。全部で3時間ほどの作業だった。

 

名義変更はこれで出来るけれど、引き落としの口座の変更は、また別の手続きとなる。この他、電気、ガス、水道、火災保険の名義変更、不動産の相続など、やるべき手続きはまだまだある。

 

大変だけど、サポートを受けながら、一つ一つ片付けていこう。

 

次の冬が来る前には、なんとか全部片付け…られたらいいな。(´・ω・`)

 

 

ねこたま日記(5月19日)

こんにちは。

 

f:id:puyomari1029:20260519075924j:image

 

いろいろあって、いまは自宅にいる。

 

(_ _).。o○

 

3月15日に、大腿骨骨折で入院した母は、リハビリのために転院し、そこで5週間ほどお世話になっていたのだけど、父の容態の悪化を伝えた5月27日から体調を酷く崩してリハビリどころではなくなり、ひどい腹痛でまともに食事もできない状況になっていた。

 

それでも5月3日には、介護タクシーに乗って父と最後の面会を果たし、5月6日には、高熱を薬で下げて、葬儀社のホールに安置されている父とのお別れもできた。

 

本当は5月7日の出棺式や火葬式にも出席したかっただろうけれど、長時間の外出に耐えられそうにないという病院側の判断もあり、父との最期のお別れについては、電話で少しばかり伝えることしかできなかった。

 

母が入院している病院は面会制限が厳しく、十日に一回ほど、事前に予約してからでないと会うことができない。やっと会えても面会時間は10分間だけだから、話し込むことなどできない。コロナなどの感染から患者を守るためなのだというのはわかっていても、毎日でも顔を見たい見たい家族にしてみれば、なんとももどかしいルールではある。

 

のちに、多くの患者さんがスマホを持ち込んでいて、家族と自由に連絡を取り合っていると知り、脱力した。知っていたら、さっさと母のスマホを用意したのに。最初に入院した病院で、「貴重品の持ち込みはご遠慮ください」と言われていたし、長女さんが長期入院していた病院もスマホ不可だったから、てっきりダメなのだと思い込んでいた。

 

(_ _).。o○

 

5月11日(月)

 

父の亡くなった5月4日に実家に来て、納棺から火葬まで、ずっと一緒にいてくれていた末っ子が、この日、先に帰宅した。

 

末っ子がいた間は、Uber eatsでお寿司を取ったりして、それなりにちゃんと食べていたのだけど、自分一人になった途端に、食欲が消え失せた。それでも食べないと動けなくなるので、とにかく一日三食頑張って食べた。

 

実家の片付けをしたり、各種手続きの準備をしたりと、やることは山のようにあったので、退屈することはなかったし、しみじみと悲しむ余裕もなかったけど、かえって良かったように思う。

 

S市内中心部の、父が入院していた病院から徒歩10分ほどの公園で、親子の熊が目撃されたというニュースを見て、ゾッとした。

 

 

5月12日(火)

 

この日に母との面会予約(10分間)を入れていたので、そこでやっと、父の最期の時や火葬までのことを、直接母に伝えることができた。

 

その時に、明日(13日)には一旦自宅に帰るけれども、次の面会まで間が開くようであれば、翌週にはまた戻ってきて、差し入れなどするからと、母に約束した。

 

面会が終わり、ナースセンターで次の面会予約を入れようとしたら、最短でも5月27日(水)になると言われた。2週間以上も空いてしまう上に、水曜日は亭主の仕事の終わりが遅いので、息子(28歳・重度自閉症)のお迎えの人手が必要になる。

 

私が実家にいた二か月間は、長女さんと末っ子が時間のやりくりをして、息子を迎え取ってくれていたけど、二人とも忙しい身の上だから、今後、亭主の仕事が遅くなるとわかっている日には、できる限り私が自宅にいるつもりだった。

 

というわけで、母との面会予約は5月28日(木)に入れてもらうことにして、その前の週の木曜か金曜あたりにも、実家の様子を見て、母に差し入れをしよう、などと考えた。

 

(_ _).。o○

 

5月13日(水)

 

午前10時から、区役所の「遺族サポート窓口」で、父の基礎年金や健康保険関連、食事支援サービスの解約などの手続きをした。事前予約で、必要な持ち物などをあらかじめメールで教えてもらっていたので、すべてスムーズに終了した。

 

区役所近くのカフェで昼食。

 

f:id:puyomari1029:20260519204847j:image

 

その後、一度実家に戻って、片付けや荷造りをして、夕方の新幹線に乗り、夜8時ごろ、自宅に帰った。

 

次に実家へ行くのは来週末として、それまでは、溜まりまくっている家事やら自分の用事やらを片付けつつ、少しばかり休養しよう、などと思っていた。

 

(_ _).。o○

 

5月14日(木)

 

この二か月間、私自身の通院が全くできていなかった。諸々の処方薬が尽きているし、歯科からは差し歯が出来上がっているから帰宅したらすぐ来院して欲しいと電話をもらっている。

 

そんなわけで、14日(木)の朝、まず歯科に電話を入れたら、今日の午後4時半から空いているというので、そこに予約を入れた。

 

その後、年金ダイヤルに電話して、父の基礎年金の手続きについて相談し、自宅近くの年金事務所の予約を取った。

 

次は実家のライフライン関係の名義変更に手をつけようとかと思って、実家から持ち出した関連書類を調べていたら、母の主治医から電話がきた。

 

母の腹痛と高熱がおさまらないので、いろいろと検査を重ねたところ、胆嚢炎の可能性が出てきたため、そちら方面の専門医のいる病院に、転院の打診をしているという。

 

さて、いつになるかしらと思っていたら、歯科の予約時間の少し前に、また主治医からの電話があり、母の転院先が決まったので、どんなに夜遅くなってもいいから、今日中に先方の病院に行ってほしいと言われた。

 

私が同意書にサインしなければ、輸血など、母の命に関わるような治療を行えなくなってしまう可能性がある。どんなに夜遅くなってもいいから今日中に来いというのは、そういうことだ。

 

旅行の荷物を持って歯科に行き、治療後に駅に直行した。

 

新幹線でM県S市についたのが、夜7時半過ぎ。駅前からタクシーに乗り、転院先の病院についたのが8時前。

 

受付で母の名前を告げると、話が通っていたらしく、すぐに病棟に案内されて、そこで医師の説明を聞いた。

 

CTの映像を見ると、胆嚢にはかなり石があり、菌から出たと思われる気泡も少し見られるものの、胆嚢本体には腫れなどの形状の異変が見られないため、強い炎症反応の原因が胆嚢炎であると断定しづらい状況なのだという。

 

けれども、身体の他の部位にも炎症の兆候が見られないので、とりあえず明日(15日・木)の午後から、胆嚢に細い管を刺して、溜まっている胆汁を吸い出す処置をするという。胆嚢には、その管とは別に、胆汁を常時排出させるための太いカテーテルも入れて留置するという。

 

また、食事ができない状況である上に、長期間の点滴で、腕などの静脈が痛んでいるため、心臓近くの静脈に太いカテーテルを入れることなるとも言われた。

 

さらに、母は足に血栓ができてしまっていたため、直近まで血液サラサラになる薬を投与されていたそうで、カテーテルを入れる際に出血が止まらなくなるリスクがあるので、その回避のために、血小板などの成分を輸血すること、浮腫防止のためのアルブミンと、免疫を上げるためのガンマグロブリンも合わせて点滴投与すると告げられた。

 

それらの治療は、私が同意書にサインしなければ行えないものだ。

 

入院に必要な諸々の書類にサインをし終えたときには、午後9時を過ぎていた。母は眠ってしまったとのことで、残念ながら面会はできなかった。

 

病院から実家へは、タクシーで3500円ほどかかる。往復だと7000円超。

 

夕食抜きで病院に来たけれど、実家には食べ物を残していなかったし、熊の出る町を夜一人でうろつきたくもない。

 

病院近くのお値段安めのビジネスホテルを探して電話すると、空室あり、朝食込みで7000円ちょっと、とのことだったので、そこに泊まることにした。

 

晩ご飯は、ホテル近くのコンビニであれこれ買って済ませた。

 

(このホテルも熊の出没する公園の徒歩圏内だったのに気づいたのは、チェックアウトしたあとだった)

 

 

(_ _).。o○

 

5月15日(金)  

 

朝6時ごろに、目が覚めた。

7時過ぎにホテルの食堂へ行き、頼んであった朝食を食べた。食欲はなかったけど、和食にしてもらったからか、それなりの量だったのに、しっかり完食できた。

 

まずホテルから1番近いdocomoショップへ行き、機種交換の相談をした。

 

いまの病院はWi-Fiが使えるようなので、私のiPhone 13をリセットして母に持たせ、私は最新型のiPhone 17に乗り換え用という魂胆だったのだけど、諸々の設定のためのお店の予約を取れるのが、最短で翌朝10時とのことだったので、この日はiPhone 17の予約と、契約内容の見直しだけとなった。

 

見知らぬカフェで軽くお昼を食べ、午後2時前に病院へ行き、新しく主治医になった方から詳しい説明を受けてから、母と少しだけ面会した。

 

13日(火)に会ったときより、母は顔色が悪いように見えた。病状についても冷静に理解している様子だったけれど、言葉には出さずとも、だいぶ嫌気がさしているのは察せられた。

 

無理もない。家族との面会もほとんど出来ない病院で、リハビリを精一杯頑張って、退院の目処だって立ちかけていたのに(杖を使えば自力で歩けるまで回復していた)、父が倒れて先に亡くなってしまうし、考えもしなかった別の病気がいつのまにか悪化して、退院どころか転院となり、手術並みに大変な処置まで受けることになったのだから。母じゃなくても、やさぐれたくなるだろう。

 

面会のあと、午後3時半ごろから、母の処置が始まった。そんなに長くかからないような話だったのに、5時になっても声がかからないので、看護師さんに聞いてみたら、まだ処置が終わらないという。嫌な予感がしたけれど、待つ以外にできることがない。

 

結局、5時半くらいに看護師さんに呼ばれ、ストレッチャーで搬送中の母の側で、主治医のお話を聞いた。

 

胆嚢の壁が硬過ぎて、太いカテーテルが刺さらなかったのだという。

 

細い管は刺すことができたので、それを使って溜まっていた胆汁を限界まで吸い出すことはできたそうで、その胆汁を見せられた。

 

赤黒いを通り越して、ほぼ真っ黒だった。

主治医によると、緑がかってもいるのだというけれど、私には緑は感じられず、ひたすら黒いとしか思えなかった。

 

健常な胆汁であれば、薄茶色なのだという。

 

その黒い胆汁を培養して、繁殖している菌を特定し、それに合った抗生剤を使うことになるけれど、合う抗生剤のない悪質な菌だった場合は……どうすると言われたのか、定かに思い出せない。なんとなく、言葉を濁されたような気がする。

 

あと、「いまは病院で使える抗生剤のなかで、最も強力で幅広い菌に効くものを使ってますから、大抵大丈夫」と言われた気もする。その抗生剤についても同意書にサインしたように思う。あとで書類を見返してみないと。

 

炎症がどうしてもおさまらず、再び胆汁がたまってしまった場合、もう一度細い管を刺して抜くか、胆嚢そのものを取り去る手術をするかの判断をしなくてはならない、とも言われた記憶があるけど、それは処置の前のお話だったかもしれない。

 

(_ _).。o○

 

いろんなことで頭がいっぱいになったので、この日も実家には戻らず、同じホテルに泊まることにした。折しも「青葉祭り」とやらが週末開催されるとかで、同室への連泊ができず、ちょうど空いていた「喫煙可」の部屋に移ることになった。

 

病院からホテルに戻り、新たな部屋のタバコ臭さに辟易しつつも、コンビニで買ってきたカツサンドその他を無理矢理お腹にいれた。

 

その後、ひと息ついていると、緊急地震速報の警報音が鳴り出したので、あわててiPhoneの画面を見たら、震度5弱の地震がこれから来ると表示された。

 

ここへ来て大地震とか勘弁してーと心の中で絶叫しつつ、荷物を手早くまとめていつでも逃げられるようにしていると、部屋がガタガタと揺れ始めた。妙に長く続く揺れで、なかなか気持ちが悪かった。

 

私のいたホテルのあたりは震度3ほどだったらしいけど、最大震度はやはり5弱だったという。

 

 今年に入り国内で震度5弱以上の揺れを観測するのは8回目、という記事を見かけた。多すぎやしないだろうか。

 

(_ _).。o○

 

5月16日(土)

 

ホテルの朝食を食べてから、9時半過ぎにチェックアウトして、docomoショップへ。

 

10時の開店と同時に入店。

すべてが終わって店を出たのは、午後2時半ごろだった。店頭での機種交換が、こんなに大変だったとは思わなかった。私も疲れたけど、昼食抜きでずっと対応してくれたスタッフの方も、さぞ疲れたことだろう。

 

その後昼食を取り(どこで何を食べたかもはや忘れた)、午後4時過ぎに母と面会し、夜6時台の新幹線に乗って帰宅。

 

(_ _).。o○

 

ほとんど記憶していないので、日曜日と月曜日は省略。

 

5月19日(火)

 

午前中、教育実習用のスーツやブラウスを買いたいという末っ子を車に乗せて、ショッピングモールへ。

 

そこで、母に差し入れする衣類を末っ子に選んでもらって、スーツと一緒に購入。

 

お昼はざるそば。亭主作。大根おろしとネギがたっぷりで、美味しかった。

 

午後には内科を受診するつもりでいたのだけど、出かける前に、母の病院から電話が来た。

 

胆嚢の炎症が治りつつあるのに、母の高熱が下がらないので、熱の原因となるような炎症部位を探したところ、大腿骨骨折で手術したあたりが腫れていてたため、その腫れから水を抜いて検査したところ、菌が見つかったのだという。

 

病状によっては、骨を繋いだ金属を付け替える再手術が必要になるのだけど、今いる病院は、あくまでも胆嚢炎の治療のために転院してきたところなので、今後のことは母の骨折についての詳細なデータを持っている病院に任せるのが安心ということで、いまそちらに転院の打診をしている、とのことだった。

 

要するに、母は3月に救急搬送された最初の病院に、戻されることになったのだ。

 

転院となれば、当然私が行かなくてはならない。

電話してくれた医師に、いつごろになりそうかと聞くと、今日すぐということはないけど、日数はそんなにかからないだろう、とのことだった。

 

とりあえず、予定していた内科を受診。

4月6日に父が入院してから、食事はファストフードやコンビニ飯がほとんどで、よくて定食屋とかだったから、血液検査は酷い結果になるだろうと予想して、言い訳まで考えてあったのに、ほとんどの数値が、なぜか改善しているという。解せぬ。

 

もしかして、私は自分で食事を作らないほうが健康的なんですかねと言ったら、看護師さんたちに大いに笑われた。

 

この話を末っ子にしたら、「あっちにいる時はたくさん歩くからだろう」と言われた。実際その通りで、あちらに居る間の平均歩数は、自宅在住の頃よりも、2000歩近くも多いのだ。

 

要するに、私の健康上の問題は、運動すればほぼ改善するということなのだろう。

 

診察室から出て数秒で、iPhoneに着信があった。母の病院からだった。

 

週明けに最初の病院への転院が決まったので、当日午後一時に出発できるように、介護タクシーを予約しておいてほしいとのこと。

 

来週はまた忙しくなりそうだから、今週中に、できることは極力片付けようと思う。

 

 

 

 

介護ではない日記(2)

5月6日(水曜日)

 

f:id:puyomari1029:20260511195138j:image

 

午前中は、どう過ごしていたのか、あまり思い出せない。

 

たしか前日(5月5日)、母の病院から電話があって、6日の納棺式に母が参加したいと言っていると言われた。火葬までの日程は、電話で看護師さんに伝えたはずだけど、どこかで伝言ミスがあったらしい。

 

病院に電話したのは父が亡くなった5月4日の午後だけど、電話した記憶が全くないので、心ここにあらずな私が伝え間違えた可能性もある。

 

それで、納棺式は今日(5日)だから間に合わないけど、6日に母が外出できるのであれば、納棺された父の顔が見られるから、その予定で事前に葬儀社に連絡して介護タクシーを予約してもいいかと確認すると、大丈夫とのことだったので、そのように手配した。

 

ところが午前10時過ぎに病院から電話が来た。

昨夜、母が高熱を出したという。

 

咳などの風邪症状はなく、解熱剤を使ったところ、今日は平熱に戻っており、母としては、どうしても父に会いに行きたいという意向であるという。

 

病院として、母の外出を許可できるのかと聞いてみたら、それは大丈夫とのことだったので、そういうことなら母の気持ちを尊重したいと答えて、予定通りに介護タクシーで迎えに行くことにした。

 

お昼過ぎに、末っ子と二人でタクシーに乗り、私だけ母の病院で降りて、末っ子には先に葬儀ホールに行ってもらった。(介護タクシーは、母の車椅子を乗せると、あと一人しか同乗できないのだ)

 

母は、元気そうにはしていたものの、2日前に会ったときよりもやつれて見えた。介護タクシーでの移動中、体調のことを聞いたら、痛み止めの薬が身体に合わなかったようだ、と言っていた気がする。痛みは今はなく、熱も大丈夫だという。

 

両親の「大丈夫」は全く信用ならないと分かっているから、外出は早めに切り上げようと思ったことは、覚えている。

 

葬儀ホールのエントランスで葬儀社の方々に出迎えられて、母と共に中に入ると(車椅子は介護タクシーの方に押してもらったように思う)、従兄弟夫妻が末っ子と一緒に待っていてくれた。

 

棺の中の父の顔を見た母は、「きれいにしてもらったね…」というような声をかけていたようだけれど、わりとすぐに父の傍らから離れて、久々に再会した甥っ子夫婦と、うれしそうに会話していた。入院した日から会っていなかった末っ子にも、声をかけてくれていた。

 

名残り惜しいだろうとは思うものの、母の体調を考えれば長居はさせられない。20分ほどで再会を切り上げてもらい、外で待っていてくれた介護タクシーの運転手さんに声をかけて、また病院に連れて行ってもらった。

 

病院に戻ったとき、母はかなり疲労が重いように見えた。後のことは私たちに任せて、ゆっくり休んで、と声をかけて病院を出たけれど、母の心境を思えば、安らげるはずもない。

 

こういう状況の時に母のそばにいられないことが、もどかしくてならないけれども、高頻度、長時間の面会を行わない方針の病院だから、どうにもならない。たぶんコロナ禍から患者を守るために出来たルールなのだろうし。看護師さんたちが親身になってくださる方ばかりなのが救いではある。

 

従兄弟夫妻と末っ子は、私たちが出たあとで、葬儀社の人にタクシーを呼んでもらって、従兄弟たちは宿泊予定のホテルに向かい、末っ子は実家に戻ってきた。

 

私は、介護タクシーの運転手さんのご好意で、実家近くまで、タダで乗せてもらって帰宅した。Sirent Logによると、午後2時ごろには家に着いていたようだ。

 

夜は従兄弟たちと一緒に飲もうということになり、末っ子が牛タン屋さんの予約を取ってくれた。

 

うま囲 S駅前西口名掛町店。

 

お店のお名前通り、とってもおいしかった。

お通しがチーズフォンデュだったのも、なかなか良かった。

 

父の思い出をたくさん話して、たくさん飲んで(私だけノンアルコール)、だいぶ元気をもらえた。

 

正直まだかなりしんどいし、母のことも気がかりだけど、とにかく明日の火葬まで乗り切って、父と一緒に家に帰るまでは頑張ろうと思えた。