こんにちは。

(昨日の日記)
昨夜は末っ子に「ユダヤジョーク」の本を音読してもらって、笑って爆睡。笑うとよく眠れる。睡眠導入剤より効くし、安全。脳神経に、たぶんそういうメカニズムがあるのだろう。
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枕元に正岡子規の「飯待つ間」(岩波文庫)があったので、なんとなく開いてみたら、目に飛び込んできたフレーズがあった。
人間は皆一度ずつ死ぬるのであるという事は、人間皆知って居るわけであるが、それを強く感ずる人とそれほど感じない人とがあるようだ。
正岡子規「死後」冒頭
この本を読んだのはもう随分前だから、記憶がだいぶ薄れている。この随筆も思い出せなかったので、読み進めてみた。
或人はまだ年も若いのに頻りに死という事を気にして、今夜これから眠ったらばあしたの朝はこのまま死んで居るのではあるまいかなどと心配して夜も眠らないのがある。
そうかと思うと、死という事について全く平気な人もある。
君も一度は死ぬるのだよ、などとおどかしても耳にも聞こえない振りでいる。
要するに健康な人は死などという事を考える必要もなく、また暇もないので、ただ夢中になって稼ぐとか遊ぶとかしているのであろう。
正岡子規「死後」
かすかに読んだ記憶が蘇ってきた。
続きをさらに読む。
余の加き長稿人は死という事を考えだすような機会にも度々出会い、またそういう事を考えるに適当した暇があるので、それらのために死という事は丁寧反覆に研究せられておる。
しかし死を感ずるには二様の感じようがある。一は主観的の感じで、一は客観的の感じである。
そんな言葉ではよくわかるまいが、死を主観的に感ずるというのは、自分が今死ぬるように感じるので、甚だ恐ろしい感じである。
動気が躍って精神が不安を感じて非常に煩悶するのである。これは病人が病気に故障があるごとによく起こすやつでこれ位不愉快なものはない。
正岡子規「死後」
こんな文章を読むと、父を救急搬送した日のことを、嫌でも思い出してしまう。
実家の廊下で崩れ落ちるように倒れた父は、私が背後でしっかり支えているのに、まるでそこから奈落へ滑り落ちそうになっているかのように、酷く動揺して、か細い悲鳴を上げ続けていた。
救急外来で検査や処置を受け、ストレッチャーで病棟に運ばれて行くときには、すでに動かしにくくなっていた右腕を持ち上げて、虚空をしきりに指差しひながら、何かに向けて激しい怒りの声を上げようとしていたようだけれど、私に視線が会うことはなく、すでに呂律も回らなくなっていて、声もうまく出せなくなっていたから、意図を汲むことは難しかった。けれども、とても入院したくなかったことだけは察せられて、どうにも申し訳なく、比喩でなく胸が潰れるようだった。
あの日、父は、どれほど恐ろしかったことだろう。
子規の続きを読んだ。
客観的に自己の死を感じるというのは変な言葉であるが、自己の形体が死んでも自己の考は生き残っていて、その考が自己の形体の死を客観的に見ておるのである。
主観的の方は普通の人によく起とる感情であるが、客観的の方はその趣すら解せぬ人が多いのであろう。
主観的の方は恐ろしい、苦しい、悲しい、瞬時も堪えられぬような服な感じであるが、容観的の方はそれよりもよほど冷談に自己の死という事を見るので、多少は悲しい果敢ない感もあるが、或時はむしろ滑稽に落ちて独りほほえむような事もある。
「死後」
入院した翌日、怒りを真正面から受ける覚悟で、病室の父を見舞った。
父は怒ってはいなかった。
静かな顔で横たわったまま、私にしっかりと視線を合わせ、唇の動きで、
「た す け て」
と伝えてきた。
いま思うと、父はあの日にはもう、客観的に、間近に感じる死に向き合い始めていたのかもしれない。
肺炎の入院治療が必要なことを伝えると、父は小さく頷いて、それ以降、「たすけて」とは言わなかった。
合わせて、私自身が免疫不全で死にかけた時の記憶も蘇ってきた。
全身を粉砕されるような痛みの合間、気絶しては覚醒するというのを繰り返しながら、真っ暗な嵐の海に浮かぶ小舟の船底に横たわり、この下はきっと底なしの奈落なのだろうと思っていたのを覚えている。あ、死ぬかな、と思ったことも。恐怖よりも、今死ぬのはまずいなー、なんとか助からないものかなーと、やけに冷静に、頭上に何個もぶら下がっている、樽のように大きな点滴液の容器を眺めていた。主観的恐怖のフェーズをすっ飛ばして客観的な向き合いに進んだのは、たぶん心の底では自分が死ぬとは思っていなかったからかもしれない。
子規は上に引用した文のあと、自分の死後に棺桶に入った場合や、土葬や火葬になった状況での心境を、思い巡らしている。
子規の墓は、田端の大龍寺にあるのだそうだ。
てっきり漱石と同じ雑司ヶ谷霊園だと思っていた。子規は静かなところに葬ってほしいと希望していたそうだから、死者人口の多い雑司ヶ谷は嫌だったのかもしれない。
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午後、実家のガスの契約者名義変更を終えて、これで電話、ネットとライフライン関連は全部終了!と、ホッと一息ついた。
母の前の病院での入院費とレンタル品の請求書が届いていたので、銀行に行って支払った。
昔から、銀行や郵便局の振込用紙の書き込みが超苦手で、毎度何枚も書き損じを出すのだけど、いつのまにか銀行が進化していて、記載台に設置された端末に振込先などの情報をぽちぽちと入力すると、用紙をプリントしてくれるシステムになっていた。
これなら私でも書き間違えずに提出できると喜んだのも束の間…
プリントされた振込用紙に空欄があって、受取人の人名を書くようにと指示があったので、病院から届いた請求書にあった理事長さんの名前を書いて窓口に提出したら、
「あー、これ、書かなくてもよかったです」
と言われ、二重線で消すのもアウトということで、結局もう一度プリントし直しとなった。二度目は窓口の人が「こちらのご案内不足のせいですから」と、全部やってくれたけど、大変申し訳なかった。
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もうずっと、睡眠導入剤なしで入眠できている。
昨夜に引き続き、末っ子に音読をお願いした。
読んでもらったのは、嵐山光三郎「超訳 芭蕉百句」(ちくま新書)
最初っから、話の雲行きが怪しかった。
「鞍馬天狗」といえば、大佛次郎原作の映画で嵐寛寿郎が演じる「鞍馬天狗のおじさん」が、覆面をつけて馬に乗り、杉作少年を救ける活劇を思いおこすが、もとは山伏(天狗)と稚児(牛若丸)の恋を題材とした能である。少年愛がテーマである。
「超訳 芭蕉百句」 第1章 伊賀の少年は江戸をめざす
芭蕉が「そっちの人」であったという説は知っていたけど、そっちとは無関係な「春やこし年や行けん小晦日」という俳句の解題で、なんでわざわざこんな話を匂わせるのだろうねと呟きつつ、続きの音読を末っ子に促すと、すぐに著者の意図が明らかになった。
蝉吟は、草ほうぼうの城址のふもとにある下屋敷でうつうつと過ごしていた。
夏になれば狸が鳴くばかりの屋敷で、宗房とふたりっきりで連吟することしか楽しみがない。
さぞかし濃密な時間であったろう。
芭蕉の生涯にわたる衆道好みは、この時代にはじまった。
「超訳 芭蕉百句」 第1章 伊賀の少年は江戸をめざす
蝉吟というのは、若き芭蕉が近侍役として仕えていた藤堂良忠の俳号で、芭蕉と蝉吟は、お互いの恋情を俳句のなかに赤裸々に残しているという。
のち、季吟の長男湖春が編集した『続山井』(春部)には、
地をするは根乱れ髪の柳哉 蟬吟
あち東風や面々さばき柳髪 宗房
が出てくる。
乱れ髪の柳は、蟬吟と宗房の仲を連想させるに十分だが、当時の武家社会にあっては衆道は美徳とされていた。『続山井』は蟬吟が没した翌年の寛文七年(一六六も)の刊行である。
「超訳 芭蕉百句」 第1章 伊賀の少年は江戸をめざす
…もしかすると、「奥の細道」も「おっさんずラブ吟行録」だったりするんだろうか。いや別にそれでもいいんだけども。
それにしても、松尾芭蕉が若い頃に最愛の人に死なれていたということは、これまで、どこかつかみどころのない印象だった芭蕉の人物像や作品から、人間らしい気配を読み取る手がかりになりそうだ。
芭蕉の句は、有名なものは、なんだかよく出来た広告映像のキャッチコピーみたいで、なんとなく親しみを感じられなかったのだ。
そういえば、「連句アニメーション 冬の日 松尾芭蕉七部集より」という映像作品があるそうだ。機会があれば、見てみたい。









