こんにちは。
ひさびさに、ふにゃもらけの画像を貼ってみた。イベントが始まるようなので、また少し頑張ってみる。
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60年以上も生きていると、昔のことを、どんどん思い出しにくくなる。
特に子ども時代の記憶を想起しようとすると、スカスカに抜けているのを実感する。
たとえば、日々の食事。
学校で食べていた給食のメニューは、数えるほどしか覚えていない。
昭和の給食では、米が出ることはなかった。ほほパン食。ごくたまに、うどんなどの麺類が出ると、教室で歓声があがった。理由は美味しいからではなく、珍しいから。
パンに添えられてくるのは、いちごジャムか、マーガリン。
牛乳は、低学年のころは瓶だったけど、高学年になったらテトラパックに変わった。そうしたら、時々出ていたココア(らしきもの)の粉が、出なくなった。あれはとても残念だった。
おかずの記憶は、ほとんどない。
唯一鮮明に覚えているのは、鯨肉のステーキ。 た何をどうしても噛みきれないのだ。
当時の小学校は、給食は完食すべしという強固なルールがあり、残すことを許されなかった。偏食のあるクラスメートが、昼休み時間になっても給食から解放されず、泣きながら先割れスプーンを握っていたのを思い出す。
私は偏食はなかったけど、噛みきれず、手でちぎろうとしてもちぎれない鯨肉の大きな塊を、どうやって飲み込めばいいのか、途方にくれたものだった。
要領のいい子どもたちは、ひと目を盗んだポケットに隠し、あとでこっそり捨てるか、家に持ち帰っていたのだろうけど、そんな知恵が働かなかったから、口の中に全部押し込み、時間いっぱいひたすら噛みしだいて、全力で飲み込んでいた。よく喉がつまらなかったと思う。
そういう苦行を強いる食育は、昭和とともにおわったようで、子どもたちが入学した平成の小学校では、給食の指導はずっと人道的なものになっていた。
「苦手なものも、一口は試してみようね」
末っ子の給食時間の見学をしたとき、食べ残しの多い子に、先生がそんなふうに声をかけているのを聞いて、ほっとした。
偏食の多い子どもは、わがままだとか、家のしつけに問題があると見なされることが多かったけど、息子(重度自閉)や末っ子(ADHD)を育てていて、そういう問題ではないということを否応なしに知ることになった。
息子は皮膚感覚が過敏すぎて、肌に触るものの材質を選ぶ必要がある子どもだった。食べ物も同様で、慣れない感触の食べ物は、なかなか受けつけなかった。
末っ子は、味覚がとても敏感だったようで、他の家族が感じないような野菜の苦味やえぐみを、強烈に感じるらしかった。また、乳脂肪分や肉の脂身を食べると鼻が痛くなるなど、独特の感覚があるらしく、少量しか受け付けないようなこともあった。
甘いものが好きなのに、生クリームたっぷりのケーキを残したり、お肉が大好きなのにバラ肉多めの炒め物は半分も食べられずに、つらそうな顔をしている様子を見ていれば、単なるわがままでなく、そういう体質なのだということは、嫌でも分かる。そういう子どもは、きっと他にもいるだろう。
給食の完食を強いる時代が終わって、本当によかったと思う。