湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

ねこたま日記(4月26日)

こんにちは。

 

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ひさびさに、ふにゃもらけの画像を貼ってみた。イベントが始まるようなので、また少し頑張ってみる。

 

(_ _).。o○

 

60年以上も生きていると、昔のことを、どんどん思い出しにくくなる。

 

特に子ども時代の記憶を想起しようとすると、スカスカに抜けているのを実感する。

 

たとえば、日々の食事。

学校で食べていた給食のメニューは、数えるほどしか覚えていない。

 

昭和の給食では、米が出ることはなかった。ほほパン食。ごくたまに、うどんなどの麺類が出ると、教室で歓声があがった。理由は美味しいからではなく、珍しいから。

 

パンに添えられてくるのは、いちごジャムか、マーガリン。

 

牛乳は、低学年のころは瓶だったけど、高学年になったらテトラパックに変わった。そうしたら、時々出ていたココア(らしきもの)の粉が、出なくなった。あれはとても残念だった。

 

おかずの記憶は、ほとんどない。

唯一鮮明に覚えているのは、鯨肉のステーキ。 た何をどうしても噛みきれないのだ。

 

当時の小学校は、給食は完食すべしという強固なルールがあり、残すことを許されなかった。偏食のあるクラスメートが、昼休み時間になっても給食から解放されず、泣きながら先割れスプーンを握っていたのを思い出す。

 

私は偏食はなかったけど、噛みきれず、手でちぎろうとしてもちぎれない鯨肉の大きな塊を、どうやって飲み込めばいいのか、途方にくれたものだった。

 

要領のいい子どもたちは、ひと目を盗んだポケットに隠し、あとでこっそり捨てるか、家に持ち帰っていたのだろうけど、そんな知恵が働かなかったから、口の中に全部押し込み、時間いっぱいひたすら噛みしだいて、全力で飲み込んでいた。よく喉がつまらなかったと思う。

 

そういう苦行を強いる食育は、昭和とともにおわったようで、子どもたちが入学した平成の小学校では、給食の指導はずっと人道的なものになっていた。

 

「苦手なものも、一口は試してみようね」

 

末っ子の給食時間の見学をしたとき、食べ残しの多い子に、先生がそんなふうに声をかけているのを聞いて、ほっとした。

 

偏食の多い子どもは、わがままだとか、家のしつけに問題があると見なされることが多かったけど、息子(重度自閉)や末っ子(ADHD)を育てていて、そういう問題ではないということを否応なしに知ることになった。

 

息子は皮膚感覚が過敏すぎて、肌に触るものの材質を選ぶ必要がある子どもだった。食べ物も同様で、慣れない感触の食べ物は、なかなか受けつけなかった。

 

末っ子は、味覚がとても敏感だったようで、他の家族が感じないような野菜の苦味やえぐみを、強烈に感じるらしかった。また、乳脂肪分や肉の脂身を食べると鼻が痛くなるなど、独特の感覚があるらしく、少量しか受け付けないようなこともあった。

 

甘いものが好きなのに、生クリームたっぷりのケーキを残したり、お肉が大好きなのにバラ肉多めの炒め物は半分も食べられずに、つらそうな顔をしている様子を見ていれば、単なるわがままでなく、そういう体質なのだということは、嫌でも分かる。そういう子どもは、きっと他にもいるだろう。

 

給食の完食を強いる時代が終わって、本当によかったと思う。