湯飲みの横に防水機能のない日記

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「鎌倉殿の13人」(41)義盛、お前に罪はない

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第41回「義盛、お前に罪はない」を視聴した。

 

覚悟はしていたけど、大変、胃に悪い回だった。

 

(´Д` )

 

前回、一応義時と和解したにもかかわらず、身内の勇み足のせいで挙兵することになってしまった和田義盛は、そのまま滅びの道をまっしぐらに突き進むことになる。

 

ドラマの中の和田義盛は、どこまでもお人好しで人情に厚く、最後の最後まで人を信じていた。

 

息子の数の多さには驚いたけど(前の奥さん、何人いたんだろう…)、身内を可愛がって、大勢に慕われて、巴という愛妻にも出会え、実朝という愛すべき主君に仕えることができて、プライベートは幸せいっぱいだったように見えた。

 

和田義盛は鎌倉の最有力御家人などにならず、野心を見せることもなければ、北条と対立することもなく、最後まで穏やかに生きられたのだろうか。

 

承元3年(1209年)、義盛が、周りに押されたことを理由に上総国司の職を得ることを実朝に願い出て、実朝はよい返事をするのだけれども、願いは叶うことなく終わってしまうというエピソードが「第39回 穏やかな一日」で描かれていた。

 

「鎌倉殿の13人」(39)穏やかな一日 - 湯飲みの横に防水機能のない日記

 

ドラマでは詳しく語られなかったと思うけれども、後鳥羽上皇に近い立場の北面の武士が上総介に任じられたのだという。

 

たとえ義盛自身がさほどの権勢を望まなくても、和田の一族は勢力拡大を求めただろうし、それに北条側が反発すれば、朝廷側はそこにつけ込む隙を見つけて割り込んでくる。

 

朝廷と幕府が競合するかのように併存していて、朝廷に任じられる国司と、幕府に任命される守護がいて、所領の保護と拡大を求め、安堵されなければ絶対に従わない御家人がそれらに任じられることを望むという、いびつなシステムのなかにいるのだから、ほんのちょっとバランスが崩れれば、揉めるだろうというのは、歴史音痴にも想像がつく。

 

和田義盛のように、世の中のバランスを崩しかねない力を持ってしまった一族の頭が、穏やかに生涯を終えるのは、きっと無理だったのだろう。

 

謀反を起こしてから、義盛は自分が鎌倉殿になるなどと巴に強がって言ってみせていたけれども、ドラマの義盛の性格では、無理そうに思えた。寝返ることがわかっている三浦義村を、従兄弟だからと許すようでは、ブラックに徹する覚悟を決めた義時にはとても勝てない。

 

和田義盛に頼朝や大江広元のような政治力があれば、話は違っていたのかもしれないけれども、それはそれで別の悲惨な歴史が紡がれていたのかもしれない。

 

(_ _).。o○

 

それにしても、和田合戦の結末は、えぐかった。

 

ドラマの終盤が近づくにつれて、腹黒さに一層磨きをかけた義時は、義盛の助命を願った実朝の心情すら利用してみせる。

 

義時は最前線に実朝を連れ出して義盛に声をかけさせて戦意を失わせ、助命が叶ったと思わせたところで、射殺させてしまう。

 

ドラマの中の北条義時は、恐怖によって御家人を押さえつけるという頼朝のやり方を踏襲し、実朝さえも力と恐怖で支配しようとしていたようだ。

 

けれども実朝は将軍であって、御家人ではない。源氏嫡流という血筋と、朝廷と交渉できる立場がある。

 

ドラマの義時は、どこか実朝を自分より弱い者、あるいはお飾りの存在として侮っている様子で、実朝が自分に逆らったり反撃したりするとは考えていないようだった。

 

だから、実朝が積極的に後鳥羽上皇と繋がって北条と対抗する決意を固めてしまうのは、義時にとっては想定外だったのかもしれない。

 

「安寧の世を作る」と決意した実朝には、清盛を滅ぼすことを誓ったときの頼朝以上の凄みがあるように思えた。

 

その実朝を、頼朝や頼家以上に手に負えない存在になりうると認めた義時は、ますますドス黒く染まりそうな予感しかしないのだけど、もうまもなく訪れるはずの実朝の最期にどう関わるのか、まだ見当もつかない。

 

 

(_ _).。o○

 

過去のおさらいになるけれども、義盛と義村の祖父である三浦義明は、治承四年に頼朝が挙兵した時に参戦したものの、石橋山での頼朝勢の敗走を聞いて衣笠城に籠城したところを、畠山重忠に攻められて、息子や孫たちを逃した上で戦死している。享年89だったという。

 

従兄弟同士でありながら、義盛と義村は、全く似ていなかった。

 

義盛が、衣笠城で壮絶な討死を果たした祖父に似たのだとすれば、義村の非情さは誰に似たのだろう。

 

と考えて、義村は伊東祐親の孫でもあったと思い出した。

 

工藤祐経を無情に放逐し、娘の八重と頼朝との間に生まれた千鶴丸を殺害した「じさま」の非情さを、義村は受け継いだのかもしれない。

 

そういえば、義時も伊東祐親の孫の1人だった。

 

義時のブラック化の引き金を引いたのが頼朝だったとしても、身内に一切容赦しない祖父を間近に見て育っているだけに、素地は出来ていたのかもしれない。

 

(_ _).。o○

 

今回は、心理的にえぐい展開だったばかりか、嘔吐シーンなどもあり、とにかく食欲の失せる回だった。

 

和田の館で一味神水の儀式を行い、書いた起請文を飲まされた三浦義村と長沼宗政は、「やらないよりはマシだ」という八田知家の無茶な案にしたがって、大量の水を飲み、指を喉に突っ込んでゲロゲロと吐いていた。

 

どうしても起請文が胃から出てこない長沼宗政に、八田知家が「俺の指を使え」と人差し指を差し出すのを見たときの、三浦義村の何とも言えない表情が最高だった。

 

しっかり吐き出した義村と、出てこなかった長沼宗政も、とくに神罰は受けなかったようだから、八田知家の嘔吐療法は効果があったのだろう。