先週日曜に放映された第18回「壇ノ浦で舞った男」を、一週間たった今日になってやっと視聴した。
前回「助命と宿命」での源義高の死が痛ましすぎた上に、食事や食べ物の出てくるシーンがなかったので心折れて、見る勇気を溜めるのに時間がかかってしまった。
「吾妻鏡」を見ると、元暦二年(1185)正月十二日、源範頼は周防国から長門国の赤間関に到着し、そこから九州に渡って平家を攻めようとしたけど、舟も兵糧もなく、長いこと足止めされたのだという。
東国の輩、頗る退屈の意有り、多く本国を恋ふ。和田小太郎義盛の如き、猶、秘かに鎌倉に帰参せんと擬す。何ぞ況や其の外の族に於いてをや。
「吾妻鏡」元暦二年正月十二日条より
「擬(ぎ)す」を古語辞典で引くと、「なぞらえる」「あらかじめ定める」という二種類の意味が示されている(岩波古語辞典)。文脈的に後者の意味だろうから、義盛をはじめとした坂東武者たちの多くは、本気で戦争をやめて鎌倉に帰ろうとしたのだろう。彼らを率いていた源範頼は、さぞ胃の痛い思いをし続けたにちがいない。
ただこの源範頼という人、ドラマのような温厚なばかりの人柄ではなかったようで、ご本人がトラブルメーカーになることもあったらしい。
寿永三年二月一日の記事に、源範頼が暴走して頼朝に叱られたという記事があったので、引用してみる。角川ソフィア文庫版の「吾妻鏡」では省略されていて読めないので、kindleで「新刊吾妻鏡」(国立図書館コレクション)をダウンロードして、記事を探してみた。
寿永三年 二月一日 庚申
蒲冠者範頼主御気色蒙。是去年冬。為征木木曽上洛之時。於尾張国墨俣渡依相争先陣・與御家人等闘乱之故也。其事今日已聞食之間朝敵追討以前好私合戦太不穏便之由被仰云々。
【ネットであちこち参照して作ってみた書き下し文】
寿永三年 二月一日 庚申
蒲冠者範頼主御気色を蒙る。
これ去年冬、木曽を征せんが為上洛するの時、尾張の国墨俣の渡に於いて、先陣を相争うに依って、御家人等と闘乱するが故なり。
その事、今日すでに聞こし食すの間、朝敵追討の以前、私の合戦を好み、太だ穏便ならざるの由仰せらると。
【適当な現代語訳】
寿永三年(1184年) 二月一日 庚申
蒲冠者範頼が、頼朝様に叱られた。
昨年の冬、木曽義仲を制圧するために京都に上るときに、尾張の国の墨俣川で、先陣争いをして御家人たちと乱闘したためである。
そのことを、今日になって頼朝様がお聞きになったので、これから平家を追討するという時に、個人的な理由でバトるとはけしからん、と仰ったとのこと。
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ドラマでは、兵糧がないことでダダをこねている和田義盛が、範頼になだめられて何とか気がおさまったところで、三浦義村が豊後国の緒方一族の支援を勝ち取って戻ってきたことで、九州への進軍が可能になっていた。
Wikipediaでは、三浦義村は、?マーク付きで1168年生まれとなっているけど、それが本当だとすると、平家滅亡の1185年には17歳前後ということになる。
義村の年齢については、この平家追討の参加資格が17歳以上であるとされていることと、それ以前に義村が従軍した形跡がないことから、1185年に17歳になった可能性が高いということから判断されたという(Wikipediaの記事による)。
だけどドラマのなかで山本耕史が演じる三浦義村は、少なくとも義経や義時と同じくらいの年頃に見える。
話が脱線するけど、山本耕史さんの実年齢は45歳だそうだ。
義時を演じる小栗旬さんは、39歳、
これだけの年の差のある三人が、ドラマの中では同世代の若者に見えるのだから、役者さんって本当にすごいと思う。
そして、元暦二年(1185)三月二十四日、いよいよ壇ノ浦の戦いが始まる。
平家側の舟は500で、源氏側の舟は800だと、陸から眺めていた義時たちが話していた。
ドラマの海戦シーンを見ていて、どうして平家はそのまま舟で逃げなかったのだろうと思った。
逃げようにも、九州にはもう味方がいなくて、上陸のあてがなかったのだろうか。
あるいは、ほとんどの漕ぎ手を射殺され、兵糧などのあてもなくて、もはや身動きできなくなったのか。
そのあたり、歴史音痴にはよく分からない。
( _ _ ).。o○
やっと、食べ物が登場した。
山盛りの、サトイモ。
頼朝に鎌倉入りを禁じられて、腰越に足止めされていた義経が、以前世話になった藤平太という村人に、約束していたサトイモをふるまう。
皮つきのままゆでただけのを、豪快にかじっていたけど、なんだかそれが妙においしそうに見えた。
サトイモやヤマイモは、日本では縄文時代のころから食べられていたらしい。
「今昔物語」の話を元に書かれた芥川龍之介の小説「芋粥」に出てくるのは、ヤマイモの粥だという。
サイトモはお粥にしなかったのだろうかと思ったら、「古事類苑」(明治政府が編纂した百科事典)という本に、里芋粥の記事があった。
里芋粥
里芋がゆは、右飯を仕かけるより、水を多く入る計のちがひ也、しかし飯より米の洗ひかたまへめなり、芋のこしらへも同じ位、鹽も同じく入、始終釜のふたをとらざるやう、追々に火をほそめて焚べし、少し明て焚迄はくるしからねども、皆あけてたけば、粥の味ひ水くさければ、無油断気を付たけば味よろし、尤焚あげ暫蒸て食すべし、
古事類苑 飲食部 六 「日用助食竃の賑ひ」
「日用助食竃の賑ひ」は、大蔵永常(ながつね)(1768~1861)という江戸時代の農学者が書いた本だとのこと。義経たちの時代よりはだいぶ後になるけれども、米と別の食材を合わせて粥にするということは、平安時代から行われていたようなので、鎌倉時代に里芋粥があったとしても不思議じゃないと思う。
ちなみに「宇津保物語」には栗粥が登場するらしい。