第三回「挙兵は慎重に」を見た。
伊豆北条館
今回は、伊豆北条館の全景を見渡せる場面があった。
館の周りが塀でぐるりと囲われている。
門の脇には物見櫓。
門の外側には何軒かの小屋が立っている。倉庫だったり、下働きをする人たちの住居だったりするのだろうか。
塀の内側、門の向かい側あたりに一番大きな建物がある。第一回目で時政帰還の宴会を開いていた建物だと思う。
他に、屋根が五つほど見える。
ドラマの中では、厨、倉庫(義時が種籾の勘定などの事務仕事をしている建物)、頼朝が匿われていた離れ屋が出てきていた。厩もあったように思う。
他に、時政の後妻に迎えられたりく(宮沢りえ)が、嫁入り道具を入れていた部屋もあったと思う。
それらに母屋(寝殿?)を入れると、建物は最低でも六つは必要な気がするのだけど、北条館全景では、全部は見えていなかったのかもしれない。
で、考えてみると、宗時&義時兄弟や、その妹が居住する部屋が、まだ出てきていない。彼らには私室はないのだろうか。
厨で働いている女たちも、それなりに人数がいたようだけど、彼女たちは住み込みではなく、通いなのだろうか。
いろいろと謎は尽きない。
食事
今回も、食に関わる場面を凝視した。
大河ドラマの一番の楽しみが食事シーンというのも、我ながらどうかと思うけれども、なにしろ出てくる人々が、歴史の中で、このさき「どうなるか」が、ほとんどわかっちゃっているので、そういう楽しみがないと、つらくて見ていられなくなる。
で、今回の「食」の見どころは、二ヶ所あった。
まず、宗時(片岡愛之助)や三浦義村(山本耕史)たちが狩から帰還したあと、義時との会話のなかで、獲物が兎だったことがわかる。義時は猪鍋を期待していたらしいけど、兎も嫌いではなさそうだった。肉好きなのだろう。
猪鍋、ぼたん鍋とも言うと記憶しているけど、私は食べたことも見たこともない。写真で見ると、豚肉と変わりないようだけど、脂が少なくて、独特の風味があるのだとか。
ぼたん鍋は味噌仕立てが普通のようだけど、平安末期や鎌倉時代はどうだったのだろう。興味津々だ。
その後宗時や義村たちは、倉庫っぽい建物で、狩の打ち上げの酒盛りをしていた。そのときの肴の皿には、少なくとも三種類のつまみが見えた。
大豆を炒ったらしきもの。
濃い緑色の豆らしきもの。
干物か燻製っぽい何か。
緑色の豆は、そら豆だろうか。
そら豆は、飛鳥時代の僧である行基が、インドの僧から譲られて、栽培しはじめたというから、平安時代にはすでに日本に伝来していたことになる。
画面で見た感じでは、乾いていたようだったから、煮豆にしたのではなく、焼いてあったのかもしれない。
干物か燻製っぽい謎肉は、かなり濃い茶色をしていふ。
平安貴族は仏教の影響で獣肉を忌避していたようだけど、肉食が廃れることはなかったようだ。
そして鎌倉時代の武士は、わりと積極的に獣を食べていたらしい。
Wikipediaで肉食の歴史についての記述を見つけたので、引用してみる。
奈良時代の肉食禁止令には、家畜を主に食していた渡来系の官吏や貴族を牽制するためとする説もあり、家畜はだめだが狩猟した肉はよいとする考えもこれに基づくものである可能性もある。奈良時代には前時代から食されていた動物に加えてムササビも食されたが、臭気が強いためにこの他の時代ではあまり例がない。
また、酢を使って鹿の内臓を膾にすることも始められた。一方で、庶民には仏教がまだまだ浸透せず、禁令の意味も理解されずに肉食は続けられた。
(中略)
平安時代には陰陽道が盛んになったこともあり、獣肉食の禁忌は強まり、代わって鳥や魚肉が食されるようになった。これが魚肉の値上がりの原因になり、『延喜式』に記載された米と鰹節との交換比率は、200年前の大宝令の時と比べて2 - 3倍に上がっている。
延喜式には獣肉の記載がほとんどないが、一方で鹿醢(しししおびしお)、兎醢など獣肉の醤油漬けや、宍醤(ししびしお)という獣肉の塩漬けを発酵させた調味料に関する記載が現れる[13]。乳製品もさらに多く摂られるようになっている。
(中略)
鎌倉時代になると、武士が台頭し、再び獣肉に対する禁忌が薄まった。武士は狩で得たウサギ、猪、鹿、クマ、狸などの鳥獣を食べた。
鎌倉時代の当初は公卿は禁忌を続けており、『百錬抄』の1236年(嘉禎2年)の条には武士が寺院で鹿肉を食べて公卿を怒らせる場面が出てくる。
しかし時代が下ると公卿も密かに獣肉を食べるようになり、『明月記』の1227年(安貞元年)の条には公卿が兎やイノシシを食べたとの噂話が載せられている。
(中略)
12世紀後半の『粉河寺縁起絵巻』には、肉をほおばり、干肉を作る猟師の家族が描かれている。
(Wikipedia「日本の獣肉食の歴史」のページから引用)
ドラマの中の謎肉は、猪や兎など、狩の獲物を干し肉にしたものなのかもしれない。
北条義時と「吾妻鏡」
今回は、以仁王と源頼政が平家に対して反乱を起こし、あっという間に鎮圧されたくだりがあった。
北条義時は1163年生まれ。
以仁王が挙兵した1180年には、まだ17歳くらいだったはず。
ドラマではいまのところ、義時の周囲に女性の影はない。頼朝の元妻にほのかな思いを寄せているっぽいエピソードはあるものの、どうこうしようという意志は全く見えない。
なんとなく、美人で気の強い年上の女性が好みっぽくて、姉の政子とのやりとりを見ていると、シスコンっぽい感じもある。
彼がたくさんの子どもに恵まれるのは歴史上の事実だし、結婚もしたはずだから、そのうち出会いがあるのだろう。
そのあたり、どうなんだろうと思いつつ、家にあった「吾妻鏡」(岩波文庫)の3巻をパラパラと斜め読みしていたら、まさにその件についての記述が目に飛びこんできた。
建久三年十月 廿五日 甲午
幕府の官女(姫前と号す)、今夜初めて江間殿(義時)の御亭に渡る、
是比企藤内朝宗の息女、当時権威無双の女房なり、殊に御意に相叶う、又た容顔はなはだ美麗なりと云々、
しかるに江間殿、此一両年、色に耽るの志をもって、しきりに消息せらるるといえども、敢えて容用無きのところ、将軍家これをきこしめされ、離別を致すべからざるの旨、起請文を取り、行向うべきの由、件の女房に仰せらるるの間、その状を乞い取るの後、嫁取の儀を定むと云々。
(読みやすいように表記は適当に変えてあるけど間違ってたらごめんなさい)
ざっくり解釈すると、こんな感じだと思う。
建久三年、つまり西暦1192年、当時29歳くらいだった義時くんは、将軍家の元で、バリバリのキャリアウーマンとして働いていた女性に片思いして、足掛け2年も猛烈アタックしていたらしい。
彼女は「姫の前」と呼ばれていて、極め付けの美女であり、職場では並ぶものがないほどの権勢を奮っていたそうで、頻繁に送られてくる義時のラブレターに見向きもせず、ガン無視していたという。
義時の恋煩いを知った頼朝が、義時に、
「あなたと結婚できた暁には、絶対に離婚いたしません」
という誓約書を書かせた上で、「姫の前」に義時との結婚を命じたようだ。
「姫の前」は、義時の正妻になる女性だけれども、残念ながら「絶対離婚致しません」と言う義時の誓いは、のちに政治的な理由で破られることになるようだ。
彼女の父親は、比企朝宗。頼朝の乳母である比企尼の養子で、のちに反乱(1203年)を起こして北条義時に滅ぼされる比企能員(佐藤二郎)の兄弟だ。
その乱のときの比企朝宗や「姫の前」の立ち位置は分からないけれども、乱の2年後には、義時の継室(後添い・後妻)と言われる伊賀の局が、義時の息子を出産しているので、「姫の前」と義時は離婚したのだろうと言われている。
義時くん、女運には恵まれない人生だったのかもしれない。
蛇足だけど、いきなり「吾妻鏡」の3巻を読んだのは、家探ししても3巻と5巻しか見つからなかったからだ。亭主に聞いたら学生時代に全巻買ったということなので、気長に探してみようと思う。
Kindle Unlimited(読み放題)では、国立図書館所蔵の「新刊吾妻鏡」を全巻読めるけど、全部漢文で書かれているので、さすがに斜め読みはキツかった。
(_ _).。o○
そういえば、Kindle Unlimited(読み放題)で、いい参考書を見つけた。
なかなか人名を覚えられない私には、こういう本はとってもありがたい。