湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

「鎌倉殿の13人」(最終回)報いの時

 

NHK大河ドラマ「鎌倉の13人」第48回「報いの時」を見終わった。(最終回)

 

Amazonプライム・ビデオ、NHKオンデマンド

 

義時の死で終わるドラマだというのは覚悟していたし、後妻の のえに毒殺される可能性は考えてはいたけれども……

 

義時、なんであんなヤバそうな薬を、怪しまずに飲んじゃったかな。(´・ω・`)

 

前妻が残していった子どもたちを育て上げた継母として、のえをそれなりに信頼していたということなのだろうか。

 

父の後妻のりくが、欲得にかられて陰謀を巡らして自滅したさまを見てきたはずの義時が、なぜ自分の後妻の不穏な考えを見抜けなかったのか。

 

毒を盛ったことを義時に言い当てられて、あっさり自白したのえは、

 

「私のことなど、少しも見ていなかったから、だからこんなことになったのよ!」

 

と、涙ながらに叫んでいた。

 

結婚当初から、夫を利用することしか考えていなかったように見えたのえだけど、たとえ自分が愛せない夫であっても、女として、妻として、夫に気持ちを顧みられることのないまま暮らす虚しさに、苦しんではいたのだろう。

 

泰時や朝時を押し除けて、どうしても正村を嫡男にしたいというのえの野心の裏側には、義時に愛されていた前妻たちに勝ちたい、妻として、彼女たちよりも義時に大切にされたいという思いもあったのかもしれない。

 

正村を嫡男にと言い募りながら、「八重やひなより、私を見て!」と心で叫ぶ、のえの思いに、義時が気づいていたなら、あんな最期にはならなかったかもしれない。

 

だけど、女にはキノコさえ送っておけば万事OK気分はハッピーと思っている筋金入りの朴念仁に、妻の屈折した感情など、察せられるはずもない。

 

出会って結婚してしまったのが、お互いの不幸だったと言うしかない。

 

(_ _).。o○

 

ドラマには全く出てこなかったけど、義時には、八重、ひな、のえの三人だけでなく、もう一人、妻がいたらしい。

 

Wikipediaによると、1200年(正治2年)5月25日に、義時に有時という息子が生まれたと、『吾妻鏡』に書いてあるのだという。母親は、伊佐朝政の娘であるとのこと。

 

義時と離縁したひな(姫の前)は、源具親と再婚して、元久元年(1204年)に輔通という息子を産んでいる。

 

ドラマでは、義時とひなとの離縁は、比企能員の乱(建仁3年/1203年)の後の出来事になっていたけど、もしかすると、有時が生まれる前にはもう別れていたのかもしれない。

 

のえ(伊賀の方)の息子の北条政村は、元久2年(1205年)6月22日、畠山重忠の乱で重忠親子が討伐された日に誕生したというから、有時より5歳年下になる。

 

有時の母親である伊佐朝政の娘は、のえより先に息子を産んだにもかかわらず、正妻ポジションは得られなかったようだ。実家の身分的なものが理由だったのかもしれないし、有時を産んでまもなく亡くなってしまったのかもしれない。息子が一人しかいないことを考えると、早死にした可能性の方が高そうにも思える。

 

なんにせよ、義時が結婚運に恵まれなかったことだけは間違いない。

 

(_ _).。o○

 

最終回で一番胸が痛かったのは義時の最期の姿だったけど、それよりも衝撃だったのは、運慶が作った仏像だった。

 

あのシュールな像は、一体どなたの作なのだろう。

 

木像なのに、むき出しの臓器でも鼻先に突きつけられたような気がして、思わずKindleを顔から離したほどだ。

 

悍ましい内面を暴き立てて嗤ってやろうという、ドラマの運慶の悪意が感じられて、なんともやりきれなかった。

 

Twitterで、あの像の評判を眺めていたら、既に模型をお作りになった方もおられて、驚愕した。あんなのが自分の部屋にあったら、心の平安など望めそうにない。

 

仏像と同じくらいインパクトがあったのは、怪僧文覚の再登場だろう。

 

後鳥羽上皇の剃髪した頭に噛みついていたけど、あのあと一緒に隠岐に渡ったのだろうか。だとしたら、後鳥羽上皇も退屈はしなかったことだろう。

 

漫画家の久世番子さんが、後鳥羽に噛み付く文覚が義朝の髑髏(偽物)に齧られている絵を公開されていて、大変笑わせていただいた。

 

 

 

(_ _).。o○

 

とうとう最後の蛇足歴メシコーナーになってしまった。

 

まず冒頭、徳川家康がお椀の飲み物をひっくり返して、愛読中の「吾妻鏡」を浸水させていた。

 

飲んでいたのは、ただの水のように見えた。

 

次は、承久の乱の決着後、鎌倉に戻った泰時と時房が、義時と食事をする場面。

 

義時の家の食器類は、執権になってからも、ずっと質素なものだったけど、今回は違っていた。

 

折敷は黒塗りの立派な物で、酒の入った器や盃も白く滑らかそうな焼き物だった。戦勝の祝いだから、よい食器を使ったのだろうか。

 

残念ながら料理ははっきり見えず、公式ホームページのフォトギャラリーにも、その場面の写真がなかった。😭

 

汁物か煮物と思われる器に、白っぽい塊の上に赤い色の鮮やかなものが添えてあるのが見えるのだけど、いずれも正体不明。

 

白っぽい塊は、豆腐のようにも見える。

鎌倉時代帰化僧が、豆腐やゆばを日本に伝えたという説があるようなので、もしかしたら義時たちも豆腐を食べていたかもしれない。

 

政子が孤児たちに食事をふるまう場面では、炊き込みご飯のようにも見える玄米ご飯の、大きなおにぎりや、焼き鳥の串、くし形に切った果物などが見えた。これまでドラマに出てきた料理のなかで、一番美味しそうにみえた。

 

政子と実衣が二人で話す場面では、脚のついた木製の器に、木の実やドライフルーツが盛られていた。

 

公式ホームページのフォトギャラリーに、器の中身の写真があったのだけど、政子が、実衣の好物だと言っていたドライフルーツの正体が分からない。

 

干し葡萄のような色合いだけれど、拡大すると、しわがない。グミとも違うように見える。

 

なんだろう。(´・ω・`)

 

KALDI オリジナルのドライフルーツとナッツのミックスの袋のなかに、似たような質感のものがあるようなので、こんどKALDIに行ったら買ってきてみようかと思う。

 

 

(_ _).。o○

 

放映はもう終わってしまったけど、なんだかまだ続きがあるような気がしてしまう。

 

義時亡きあと、執権になった泰時は、御成敗式目を作るなどの優れた業績を残すけれども、最初の妻である三浦義村の娘とは、承久の乱より前に離縁していたらしい。

 

ドラマでは、泰時と初の夫婦は最後まで仲睦まじいままだったけれども、何度となく北条を裏切りそうだった三浦義村との微妙な関係もあって、史実の泰時たちは離縁に踏み切ったのだろうかと想像している。

 

運慶は、義時が亡くなる数ヶ月前に死亡しているようだ。ドラマでは義時に捕えられていたけど、史実ではどうだったのだろう。

 

政子は義時が亡くなった翌年に死去し、実衣(阿波局)は、政子より二年遅れて亡くなっている。

 

三浦義村が亡くなったのは1239年だそうで、義時の死後15年も生きていたのだけど、結局最期まで北条を裏切ることなく逝ったようだ。

 

けれども義村の息子の泰村の代になって、御家人たちのバランスを取っていた三代目執権北条泰時も亡くなってしまうと、とうとう北条と三浦が真っ向からぶつかることになり、1247年の「宝治合戦」で、三浦一族は滅亡することになる。

 

そんなその後の鎌倉の移り変わりのドラマを、できれば先にあの世に旅立った「鎌倉殿の13人」の主要人物たちによる座談会の副音声つきで見ることができたら、楽しそうだなあと思う。