湯飲みの横に防水機能のない日記

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「鎌倉殿の13人」(47)ある朝敵、ある演説

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第47回「ある朝敵、ある演説」を視聴した。

 

 

源頼茂の立てこもり事件

 

承久の乱の2年ほど前に、在京御家人源頼茂(みなもとのよりもち)という人物が、大内裏に立てこもるという事件が起きる。

 

源頼茂は、第3回「挙兵は慎重に」で、以仁王とともに挙兵したものの、歴史からもドラマからもあっさり消えた源頼政の孫だという。

 

 

歴史音痴と大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(3) - 湯飲みの横に防水機能のない日記

 

ドラマの中で、頼朝に源頼政が「信ずるに足るお人か?」と聞かれた北条時政は、「わしはあんまり好きではない」と正直に答えていた。

 

当時伊豆の国司だった源頼政に、時政が野菜を贈ったところ、その場では目もくれなかったのに、後になって「あの芋はうまかったので、もっと欲しい」と言ってきたという。

 

あれは頼政が坂東武者を下に見ていることがよく分かるエピソードだった。(そして時政の野菜は、とてもみずみずしくて美味しそうだった…)

 

そのお高くとまった芋好きの源頼政以仁王と挙兵して消えたのは、治承四年(1180年)のことだった。

 

その39年後の承久元年(1119年)、頼政の孫の頼茂が、出てきたと思った途端「もはや、これまで!」と叫んで内裏に火を放ち、自害する。画面に出ていた時間は10秒もなかったような気がする。

 

この祖父と孫は、年号の「承」の字と、とびきり相性が悪いのかもしれない。(´・ω・`)

 

頼茂が内裏に立てこもっていた理由について、ドラマの慈円は、源氏である自分ではなく、三寅が鎌倉殿になることが不満だったからだろうと説明していたけれども、それが本当かどうかは分からない。

 

この件については、慈円の書いた「愚管抄」と、「吾妻鏡」などの他の書物とで、意見が食い違っているらしい。

 

源頼茂は、大内裏の守護の任に就く一方で、鎌倉幕府の在京御家人として朝廷と幕府を仲介する立場にあった人だという(Wikipediaによる)。

 

源仲章とちょっと似たような立場だったことや、清和源氏の血を引き公卿にまでなった祖父頼政の存在を考えると、頼茂が鎌倉殿になりたいという野望を抱く可能性は、なくはないと思われる。

 

でも、野望を叶えるためにしては、やり方がなんだか不自然だ。

 

立てこもるというのは、追い詰められてどうしようもなくなった時にやりそうなことであって、野望を抱いて前進しようとする人には似合わない。

 

しかも立てこもった場所が内裏というのが分からない。鎌倉殿になるには朝廷からの宣旨が必要なのに、その宣旨を出してくれる上皇の怒りを買ってどうするのだろう。仲章のように、反北条、反義時を謳ったほうが、まだ目がありそうなのに。

 

ちなみに、「吾妻鏡」では、この事件について、次のように説明している。

 

頼茂、叡智に背くにより、官軍を彼の在所昭陽舎に遣はし合戦す。

 

頼茂が後鳥羽上皇の考えに従わなかったから、彼が守護していた昭陽舎に兵をやって戦ったというのだ。

 

自分から立てこもったのと、兵を差し向けられて仕方なく立てこもったのとでは、話が全く違ってくる。

 

頼茂は、自分が鎌倉殿になりたいと思うどころか、何らかの理由で上皇に排除されると知って、やむなく内裏に立てこもったのかもしれない。

 

 

朝廷側のドロドロ事情

 

慈円が頼茂に反感を持つ理由は、歴史音痴にも分かりやすい。

 

三寅(藤原頼経)は、慈円の兄である九条兼実の曾孫だから、慈円にとっては、身内が鎌倉殿に就任するという、たいへん美味しい状況ということになる。となると、鎌倉殿の後継者になれる血筋の人間は、慈円九条家側の人々にとっては、邪魔者ということになる。

 

もちろん朝廷内には九条家慈円と対立する勢力も当然いるわけで、ドラマの中では、藤原秀康がその代表格のようになっていたけれども、実は後鳥羽上皇の乳母だった兼子も、反九条、反三寅側だったらしい。

 

兼子は、自分が養育していた頼仁親王を次期鎌倉殿に推していて、上京してきた政子との会談でも、そう約束していたという。政子は兼子の後押しを受けて、従二位に昇格している。それほどまでに、鎌倉殿につながることで得られる利権は大きなものだったのだろう。

 

けれども実朝が暗殺されてしまったために、後鳥羽上皇親王の鎌倉行きに反対するようになり、頼仁親王を鎌倉殿にしようとする兼子を遠ざけるようになっていたのだと、Wikipediaの「藤原兼子」のページに書いてある。

 

三寅を鎌倉殿にしたい慈円

 

慈円九条家の勢力を抑えたい兼子。

 

鎌倉幕府を自分の治世の妨げになると考え、北条義時を憎む後鳥羽上皇

 

源頼茂は、鎌倉殿になりたかったわけではなくて、何らかの事情で朝廷内のドロドロした政争(たぶん兼子の陰謀)に巻き込まれたのではないかという説もあると、Wikipediaの頼茂のページに書いてあった。そのほうが状況を理解しやすいように思う。

 

いずれにせよ、頼茂が火を放ったために内裏は焼失してしまい、後鳥羽上皇は再建に取り掛かるのだけれども、その莫大な費用を武家から取立てようとしたために、幕府と朝廷の対立が深まり、のちの承久の乱につながっていくことになる。

 

承久の乱の始まり

 

後鳥羽上皇は、京都守護の伊賀光季を討ち取らせて、それを北条義時追討の狼煙とした。

 

鎌倉で兄の死を伝え聞いたのえ(伊賀の方) は、義時が光季を見殺しにしたのではないかと疑って、義時を責めていた。

 

吾妻鏡」によると、伊賀光季は、上皇が兵を集めていることや、上皇の招聘を拒んだために処罰を受けそうになっていることを、討たれる直前に鎌倉に知らせていたという。

 

けれどもドラマでは、光季は宴会で酒を酌み交わそうとしている最中に、藤原秀康に踏み込まれ、あっさり倒されていて、危機感などは持っていない様子だった.

 

我欲の強そうな二階堂行政や のえの身内だから、敢えて、無能な人物らしく最期を遂げたように演出されてしまったのだろうか。だとしたら、ちょっと気の毒だ。

 

当時、のえの兄の伊賀光季だけでなく、義時の娘婿の大江親広という人も京都守護に任じられていて、こちらは上皇の招聘に応じて幕府軍と戦ったらしい。(Wikipediaによる)

 

義時には竹殿と呼ばれた娘がいて、大江広元の長男である親広と結婚していたという。

 

竹殿は北条朝時の同母兄だというから(Wikipediaによる)、義時の二番目の妻だった比奈(姫の前)の娘なのだろう。

 

史実の竹殿は、承久の乱で義時を裏切った親広と離縁して、土御門定通と再婚し、夫や兄の泰時と協力しながら大活躍するのだという。

 

比奈が義時と離縁して去ったあとは、のえに育てられていたのだろうか。継母や父親や兄弟たちとの交流はどうだったのかなど、いろいろと知りたいことは多いけれども、残念なことに、ドラマでは竹殿は存在丸ごと省略されていたから、最終回まで出てくることはないのだろう。

 

それにしても、義時を利用することしか考えてこなかった のえの兄が義時を裏切らず、義時との信頼関係の厚い大江広元の息子があっさり義時を裏切っていたというのは、ずいぶんと皮肉なことではある。

 

 

政子の演説と家族愛

 

歴史上有名な北条政子の演説は、御家人たちに、頼朝の恩顧に報いて、後鳥羽上皇に讒言してたぶらかす藤原秀康と三浦胤義らの逆臣を討つようにと訴えたものだという。

 

ドラマの政子は、大江広元に書いてもらった美辞麗句たっぷりな演説原稿を途中から無視して、義時が私利私欲なく、鎌倉のために生真面目に働いてきたことや、鎌倉を戦火から守るために自分の首を上皇に差し出そうとしていることを伝え、朝廷の支配を退けて坂東武者の世を作るために立ち上がることを訴えていた。

 

北条の専横を憎んでいたはずの御家人たちまでもが、政子の言葉に心打たれたのだとすれば、ここで義時の首を朝廷に差し出して直近の戦火を避けたとしても、その後の坂東武者に明るい未来がないことを、はっきり悟ったからかもしれない。

 

政子の演説を受けて、泰時も父への深い想いこめた言葉を発し、御家人たち気持ちを一つにまとめあげてみせた。

 

苦しみや葛藤の多かった義時の人生のすべてが報われた瞬間だったことだろう。

 

(_ _).。o○

 

御家人たちが団結する有様を、苦虫を噛み潰したような顔で眺めていた三浦義村は、心の中で弟の胤義を見捨てる覚悟を決めていたのだろうか。

 

あるいは、政子の演説を聞きながら、何をしても結局義時を超えることができない自分の人生を思って、苦い気持ちになったのか。

 

のえの思惑も気になる。

自分の夫が捨て身で鎌倉を守ろうとしているのを立ち聞きしたことで、気持ちが変わることがあればいいのだけど。

 

来週が最終回。

みんな、どんな終わりを迎えるのだろう。

 

(_ _).。o○

 

毎度蛇足の歴メシコーナー。

 

今回は、料理の姿がはっきり見えないまま終わってしまうシーンが多くて、残念だった。

 

まず、泰時と時房が、縁側で酒を飲みながら話すシーン。肴もちゃんと出ているのだけど、折敷の縁が邪魔で、よく見えない。

 

白っぽい豆のようなものと、ビーフジャーキーっぽい色のものがあったように思う。炒った大豆と、干し肉だろうか。

 

お酒は白っぽく濁っていた。

 

政子と実衣、のえの三人が歓談するシーンでは、高杯(たかつき)の上に、以前にも出てきた清浄歓喜団や、白くて大きな饅頭、ドライフルーツなどが盛り付けてあった。

 

Wikipediaによると、日本の饅頭の起源には2系統あるという。

 

ひとつは臨済宗の僧、龍山徳見が、1349年に帰国した際、その俗弟子として随伴してきた林浄因が伝えたとするもの。

 

もうひとつは、1241年に南宋から帰国した円爾が、福岡の博多でその製法を伝えたと言われるもの。

 

どちらも承久の乱(1221年)よりだいぶ後の話になるから、政子たちの歓談の場に出されていた饅頭は、もしも存在したとするなら、上の二つとは別系統のものということになる。

 

実朝のころには、宋との民間交易が盛んになっていたようなので、政子たちのいた頃の鎌倉に、饅頭のような食文化の流入があっても不思議ではない。

 

政子に抱かれた三寅が嬉しそうにかぶりついていた饅頭の中身は、何だったのだろう。

 

僧侶が伝え広めたた饅頭は、肉を使わないものだったらしいけれども、肉食をそんなに忌避していなさそうな鎌倉の武家の饅頭なら、肉まんもあり得たかもしれない。

 

京都守護の伊賀光季が、酒を酌み交わそうとしている時に藤原秀康に襲撃されたシーンでは、一瞬だけ料理の姿が見えたけど、蹴り散らかされて終わってしまって、器の中身は分からなかった。

 

豪華な雰囲気だったのに、もったいない。(´・ω・`)

 

義時追討の院宣をばら撒くために鎌倉に帰ってきた平知康が、三浦館で食事をもらって嬉しそうに食べているシーンも、器の中身が見える前に、知康が家人たちに折敷ごと連行されてしまったせいで、料理がよく見えなかった。

 

何となく、玄米ご飯と焼き魚のような気がしたけど、確証はない。

 

「鎌倉殿の13人」はもうすぐ終わってしまうけど、ドラマに出てきた料理や食材、食器、調理方法などについて、時代考証をされた方や、小道具を準備された方々のお話を交えながら、詳しく紹介してくれる特番や書籍があったら、とても嬉しい。

 

出ないかなあ。

 

(_ _).。o○

 

食べ物じゃないけど、鎌倉殿の13人にちなんだ、どーもくんのぬいぐるみがあるようなのだけど、Amazonでものすごい値段がついていた。

 

 

着物は若い頃の義時のもののようで、可愛いんだけど、お高すぎる…

 

(_ _).。o○

 

番外編なのだろうか、Amazonプライム・ビデオ(NHK オンデマンド)に、「鎌倉殿の13人 オープニング13の秘密」というのがあったので、見てみた。

 

 

放映のたびに、何十回も見てきたオープニングなのに、気づいていないことだらけで、自分の注意力の無さに悲しくなった。

 

まず、オープニング映像のなかに出てくる石像群は、すべてCGで作られたものだという。

 

石像の自然な質感のせいで、てっきり手作りされた実体のあるものだと思っていたけど、よくよく思い出せば、馬の後ろ脚がゆっくりと崩れ落ちていくような、実写ではあり得ないシーンもあったのだから、CGだと考えるほうが自然だった。

 

壇ノ浦の合戦を表現した場面では、イルカが数匹泳いでいたのに、これまでちっとも気づかなかった。

 

陰陽師の安倍晴信が、イルカの群れを見て平家の敗北を予言したことにちなんで、オープニングでもイルカたちが泳がされたのだという。

 

毎回、義経の八艘飛びばかり眺めていて、波があることにも気がついていなかった。

 

鳥居と向き合う武士が出てくる場面には、義時が夢に見たという犬の姿もあった。割とはっきり犬だとわかる映像なのに、言われるまで、全く気づかなかった…無念だ。