湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

「鎌倉殿の13人」(28)名刀の主

「鎌倉殿の13人」の第二十八回「名刀の主」を視聴した。

 

「13人」のなかで最初に失脚するのは、梶原景時(中村獅童)だった。

正治元年十月、「忠臣は二君に仕えず」という結城朝光(高橋侃)のボヤきを聞きつけた梶原景時は(景時にチクッたのは善児)、それを謀反の兆候と見て、結城朝光を謹慎させる。


謹慎中の結城朝光は、阿野全成の妻である実衣(宮澤エマ)に頼まれて琵琶を指南する傍らで、愚痴の聞き役をしていたけれど、いい感じに心情的に接近してきたところで、自分が梶原景時に謀反を疑われているという悩みを打ち明けて、自分の保身のために実衣を動かすことに成功する。

 

実衣の働きかけは些細なものだったかもしれないけれど、もともと景時に対する憤懣が溜まっていた御家人たちの怒りを激しく煽ることとなり、その動きを利用しようとする北条時政比企能員の思惑なども絡んで、結果的に66人もの連名による景時排除の連判状が頼家に提出されてしまう。


事が成ったあと、結城朝光が三浦義村(山本耕史)に謝礼をもらう場面があり、実衣を利用しようと企んだのが義村だったことが明かされる。


義村はかなり早い時期から他勢力を出し抜こうとする意志を見せていたけれども、ステルスっぷりが徹底しているため、誰にも疑われることがなく、うまく矢面に立たずに済んでいる。

 

結城朝光と義村とは「知己の仲」だったと、Wikipediaに書いてあった。今回の景時による謹慎の件などで、親しくなったのかもしれない。

 

けれども、義村に謝礼をもらったときの結城朝光の表情には、自分の立ち位置についての懊悩が浮かんでいるように見えた。

 

結城朝光という人は、内紛内ゲバの吹き荒れる鎌倉で、どの勢力とも共倒れすることなく、法然親鸞に深く帰依し、晩年には出家して、三浦の一族が滅亡するところも見届けた上で、87歳まで生きたのだそうだ。

 

( _ _ ).。o○


梶原景時の失脚を知った後鳥羽上皇(尾上松也)は、景時を自分の手駒にするために都に呼び寄せようとしたけれど、そのことを義時から聞いた頼家は、景時に流罪を命じた。

 

御家人の連判状への対応を含め、梶原景時に対する頼家の判断は、最善ではないにせよ、鎌倉殿として、妥当ではあったように思う。

 

妹の三幡が亡くなったときに、入内させてやれなかったことを悔やみ、都とのつながりを自分の手で強めるから安心するようにと、母親の政子に言ったことについても、そのことの良し悪しはともかく、頼朝譲りの政治家としての非情さを感じされられる。

 

比企の家で傀儡に相応しくなるように甘やかされて育てられていたのだとしても、もともとの優れた資質がすべて損なわれていたわけではなかったのだろう。


今後のことを考えれば、こういう事件を利用するなどして、御家人との関係を改善できればよかったのだろうけど、それをするには、ドラマの中の頼家の視野は狭く、情緒的にも幼く、政治力も足りな過ぎた。信頼できる有能な家臣がいなかったことも含めて、運のない人だったんだなと思う。

 

好色だったことについては、当時の倫理観では悪とは言い難いのかもしれないけれども、頼朝の忠臣安達盛長の息子景盛の妻を横取りするのは、どう考えても悪手だろう。

 

この件については、「吾妻鏡」にも書き残されているというので、頑張って探してみた。

 

 

正治元年七月二十六日

丙辰 甚雨雷一聲。及晩。属晴。入夜。召件好女[景盛妾]於北向御所。自今以後可候此所云々。是御寵愛甚故也。

 

(「新刊吾妻鏡」巻15-16) kindle版より(kindle unlimitedで利用可)

 


【てきとーな意訳】

 

正治元年七月二十六日、丙辰(ひのえたつ)。

めっちゃ雷雨だったけど、夜になって晴れた。

その夜、鎌倉殿は安達景盛の妻を北向きの御所に来させて、以後ここに住むように、とおっしゃったとか。なぜかというと、この人妻をとっても気に入っちゃったからである。

 

……

 

不倫活動の日の天候の詳しい記録が、妙な生々しさを添えていると思う。

 

御所に呼ぶにしても、せめて女官としての体裁を作るとか、うまくやればいいものを、歴史書に書き残されるほどバレバレにやらかすのは、不器用だからなのか、傍若無人な性格だからなのか。


なんにせよ、残念な嫡男だったと思う。

 


( _ _ ).。o○


毎度楽しみな歴メシネタ。

今回は、義時の家のご飯のシーンがあった。

玄米ご飯と、焼き魚。

有力御家人になっても、義時の食事は、若いころから変わらず、質素なままのようだ。


鎌倉時代の武士たちは、三分搗き程度の玄米を食べていたという。
(永山久雄「和の食全史」より)

 

 

 

三分搗きだと、ぬかが約30%除去されて、胚芽がそのまま残っているのだという。

ビタミンやGABAがたっぷり含まれている玄米ご飯は、義時たちの健康を守り、ストレスフルな鎌倉の情勢を生き抜く力を与えてくれていたかもしれない。