NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第32回「災いの種」を視聴した。
源頼家という人は、本当に運がないというか、巡り合わせの悪い人だと思う。
たった18歳で父に死なれて鎌倉殿を継いだのが、不運の始まりだったろうか。
頼家が生まれたのは寿永元年(1181年)、頼朝が36歳の時だったという。せめて、もう少し早く産まれていればと思うけれども、頼朝と政子との出会いが治承元年(1177年)ごろだったようだから、どう頑張っても、+3年くらいしか稼げない。18歳と21歳では、重責を背負う大変さはそんなに変わらないだろう。
2代目鎌倉殿になったあと、強力な後ろ盾だった比企一族と、頼朝の代からの忠臣だった梶原景時の一族が、早々に滅ぼされてしまったのも、運がなかった。
良くも悪くも公平だった梶原景時が目を光らせていたなら、時政が頼家呪詛など企てても、話がこじれる前にバレそうだし、頼家を一幡にすげ替えようとしていた比企能員だって、動きにくかっただろう。
嫡男(一幡)の母親が比企氏の娘だったのも、運がなかったような気がする。
頼家は、比企氏のほかに、源為朝(頼朝の叔父)の孫娘や、昌寛(頼朝の祐筆)の娘、源義仲の娘(どうやって知り合ったんだろう)との間にも子どもを作っていたようだ(とWikipediaに書いてあった)。
比企氏の娘ではなく、他の妻が嫡男を産んでいたなら、あのタイミングで比企能員の乱(というよりむしろ北条氏による比企氏の粛清)は起きなかったのじゃなかろうか。
頼家は若いうちから妻がたくさんいたのに、北条の女性や、北条に近しい家の女性とは、結婚していないようだ。比企氏が頼家を囲い込んで、北条寄りの女性を寄せ付けなかったのかもしれないけど、安達盛長の息子の嫁を強奪する元気があるのなら、北条の息のかかった女性をナンパするか、せめて我が子の乳母に採用するとかしておけば、少しは違った未来があったかもしれないのに。
弟の千幡(実朝)の乳母が北条の娘だったのも、頼家にとっては巡り合わせの不運と言えるかもしれない。鎌倉殿の座を争う「比企・頼家(一幡)」対「北条・実朝」という構図がある以上、政子以外の北条の人々は、どうしたって頼家の本当の味方にはなり得ない。
危篤状態だった頼家が健康を取り戻したタイミングも、彼にとっては最悪だった。
後ろ盾がきれいさっぱり消えて、北条氏が覇権を握りつつある状況で、打倒北条を叫んだりしたら、暗殺してくれと言っているのと変わらない。
そのあたりの危機感の足りなさ、読みの甘さも、若さと経験不足によるのだとすれば、やはり生まれ落ちたタイミングからして不運だったというしかない。
滅びが内定したような人生を与えられて、運に恵まれないまま21歳で殺されてしまう頼家にも、少しは穏やかで幸せな時間があったと思いたいのだけれども、ドラマの中ではほとんど見出せなかった。
若者を集めて蹴鞠をしていた時は楽しそうではあったけれども、半ば現実逃避だったようだし、心の安らぎはなかったかも。
現代に生まれ変わっていれば、サッカー選手になっていそうだけど、あの運の悪さを考えると、政情不安な国に生まれてテロに巻き込まれたりしそうな気がしてならない……
(_ _).。o○
昔、日本史の授業で鎌倉時代を習った時、平家を滅ぼして武家の頂点に立ったはずの頼朝の息子が次々と殺されて、いつのまにか北条氏の時代にすり替わった理由がよくわからず、不思議に思ったものだった。
ドラマの中では、坂東武者にとっての「鎌倉殿」は貴種であると同時に、根本的に異物であり、扱いを間違えれば御家人分裂の引き金になりかねない危険な存在として描かれている。
人生の目的を「坂東の安寧のための北条ファースト」みたいなところに定めたらしい義時の目には、源氏棟梁の血筋などは放置すれば災いの種でしかなく、徹底的に無害化して利用するための駒にしか見えなくなったのかもしれない。
そう考えると、源氏の嫡流があっという間に絶えてしまったのは、坂東武者による拒絶反応だったように思えてくる。免疫反応によって体内の異物や病原体を駆除するように、頼朝の血は駆逐されてしまったのだろう。
とすれば、義時は白血球化したとも言える。
肉親の情も切り捨てて顧みなくなった義時は、なんだか顔色も悪くて不気味だし、人としてとても残念だけれども、義時の嫡流が百年以上も続いたことを考えば、あの時代の為政者としては、ああいう非情なやり方が間違っているとは言えないのだろう。
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今回、ブラック義時とキャラが入れ替わるかのように、アサシン善児が人情を獲得していたのが、面白くも痛ましかった。
幼児であってもためらうことなく殺してきた善児なのに、一幡の殺害を命じられて「できねえ」と拒否し、その理由を義時に理由を問われると、自分に懐いてくれたからだと答えていた。
孤児のコウを後継者として育てるうちに、善児自身も人の心を育てられてしまったのだろうか。
コウと善児の関係は、まだよく分からないけれども、二人のちょっとしたアイコンタクトなどから、信頼関係や情愛があるらしいのが伝わってくる。
前話でコウが頼家の正妻を殺害した時、善児はどことなく複雑な表情で見ていたように思う。深読みしすぎかもしれないけれど、コウの初陣を評価する表情ではなく、人殺しをさせることへの後悔のようなものが滲んでいたように思うのだ。一幡に無骨なブランコをこしらえて遊んでやっていたように、善児はコウにも不器用な愛情を注いで、彼なりに大切に守り育てていたのかもしれない。
殺しを苦痛に感じるような人情を持つことは、善児のような人間にとっては、最大の応報なんじゃないかと思う。
かつての頼朝のように、血縁のある幼な子までも容赦なく殺すようになってしまった義時には、どんな応報があるのだろう。
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毎度蛇足の歴メシコーナーだけど、今回も食べ物の出番はなかった。(;_;)
なので、前回に引き続き、今回も強引にネタを持ってくることにする。
いつもお世話になっている「『和の食』全史」(永山久夫著)によると、鎌倉武士は、酒肴としてクラゲを食べたという。
私はクラゲを食べたことがない。
どうやって食べるものかと亭主に聞いてみたら、普通、干したのを戻して食べるのだという。
干物ということだろうか。
Amazonを見たら、いろいろ売っていた。
たとえば「高級珍味キャノンボールクラゲ(頭)」
キャノンボール(砲弾)クラゲ。
えらく物騒な名前だけど、フカヒレやツバメの巣などと並ぶ、高級中華食材で、コラーゲン豊富で女性に人気なんだとか。
YouTubeでキャノンボールクラゲのレシピ動画を見つけた。
水で戻して塩抜きしてから(水を換えながら4時間ほど)、ポン酢、ごま油その他と豚シャブ肉とレタスで和えている。
ちょっと食べてみたい。
「お刺身くらげ」(中外フーズ)というのもあった。
こちらは干物ではなく、水分を含んだ状態で調味されているようだ。コリコリの食感がたまらない一品とのこと。
サブタイトルが「修禅寺」となっている次回も、おそらく食欲喪失するような酷い展開になるだろうから、歴メシネタは全く期待できそうにない。
いまのうちにネタを探しておこうかしら。