だいぶ遅くなったけど、「鎌倉殿の13人」第25回「天が望んだ男」を視聴した。
建久9年(1195年)、御家人の稲毛重成が、亡き妻の供養のために、相模川に立派な橋をかけた。
稲毛重成の亡妻は北条時政の娘なので、落成供養には、北条氏の一門が集まり、同じく時政の婿で重成の従兄弟でもある畠山重忠が、供養の会を取り仕切っていた。
供養の会では、一族の女性や子どもたちもたくさん集まって、にぎやかに丸餅をこしらえていたけれど……
十年後の元久2年(1205年)の畠山重忠の乱のあと、稲毛重成の一族は、重忠を讒言で陥れたことを理由に、兄弟や息子共々滅ぼされてしまうのだという。
ドラマの中で、おめかしをして集まっていた子どもたちの多くは、十年後には鎌倉から消えているのだろうか。(´・ω・`)
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橋の落成供養(建久9年12月27日)には、頼朝も招かれていた。
自分の臨終の場面を夢に見続けて心が衰弱していた頼朝は、気乗りしないながらも、弟の阿野全成の「仏事神事は欠かさぬこと」という、口から出まかせの助言に従って、安達盛長を共に連れて出かけて行く。
その結果、餅を喉に詰まらせて危うく死にかけ、帰り道で落馬する。
頼朝が亡くなるのは、翌年の建久10年(1199年)の1月13日、満51歳だったという(Wikipediaによる)。
相模川に行かなければ頼朝は死なずに済んだのだろうか、というような「もしも」を想定する気にならないほど、ドラマの中の頼朝は、残酷なほどきっちりと命運が尽きていたように思う。
思えば序盤から、このドラマの頼朝は、夢や予兆に振り回される人だった。
夢枕に立った(座った?)後白河法皇に腹を揺すられてうなされる頼朝は、どうしようもなく小物に見えたけど、あの残念な小物感は、鎌倉殿と呼ばれるようになってからも、なかなか克服されなかった。
今回のタイトルの「天が望んだ男」というのは頼朝のことなのだろうけれど、天に望まれる人生の重さに耐えきって長寿を得るほどの強靭さは無かったのだと思う。
頼朝より十数年長く生きた後白河法皇(享年66)や平清盛(享年64)は、怪物レベルの生命力、精神力だったのだろう。
落馬する直前に、頼朝が軛から解き放たれて自由にあろうとする安らかな境地に至ったのは、きっと脚本家さんの頼朝への愛だろう。いつもながら、主要人物の命の終わる直前に、はなむけのように明るく軽やかな希望を一瞬だけ見せることで、歴史の流れに消えていく人の重さとかけがえのなさを視聴者の記憶に刻んで忘れなくさせる、なんとも憎い演出だ。
落馬と同時に、ずっと頼朝を不安に駆り立てていた不思議な耳鳴りが響き渡った。
耳鳴りはストレスや老化、脳の異常などが原因で起きるものだというけれど、ドラマでは、まるで虫の知らせであるかのように、頼朝と縁のある人々にも聞こえていたから、超常的な現象ということなのだろう。
超常の耳鳴りに反応していたのは、政子、畠山重忠、源頼家、牧の方、比企能員、三浦義村、和田義盛、梶山景時、だったろうか。
政子と三浦義村以外は、鎌倉の内ゲバと粛清の嵐の中で、失脚して滅んでいく人々ばかりだったのは、何か意味があるのだろうか。
北条義時が画面に現れたときには音は消えて、義時が反応する様子もなかったことも、気になる。何か別の思いに深く囚われていて、気がつかなかったのだろうか。
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毎度恒例の、歴メシ蛇足。
今回は、北条家の人々が作っていた「丸餅」が印象的だった。
つきたての丸餅に、酢をかけて食べると美味いのだと、時政が嬉しそうに語っていた。
お餅にお酢をかけて食べたことはない。
検索してみたら、農林水産省のホームページに、福岡県の郷土料理として、「酢餅」が紹介されていた。
大根おろしと、だいだいのしぼり汁、醤油、砂糖で食べるのだそうだ。
美味しそう。
今度のお正月に、試してみたい。
とはいうものの、鎌倉と福岡県は、だいぶ遠い。
関東にも酢餅の風習がなかったのかどうか調べるのを、今回の宿題にしておこう。
ぎりぎりで、次回の放映時間前に投稿できそう。