湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

「鎌倉殿の13人」(33)修禅寺

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第33回「修禅寺」を視聴した。

 

鎌倉幕府にとって排除すべき異物と成り果てた頼家は、修禅寺に追放されたのち、元久元年(1204年)7月18日、北条に駆除される形で最後を遂げた。

 

この事件について、「吾妻鏡」はこんな風に書いている。

 

十九日。己卯。酉の剋(午後六時前後)、伊豆国の飛脚、参着す。昨日(十八日)、左金吾禅閤(源頼家)[年、廿三]、当国修禅寺に於いて薨じ給ふの由、之を申すと云々。

 

吾妻鏡角川ソフィア文庫

 

飛脚が訃報を知らせたとだけ書いてあって、暗殺云々については触れていない。

 

白々しいというか、いっそ清々しいほどの隠蔽工作で、「吾妻鏡」が北条氏の立場に忖度して書かれているということが、とてもよく分かる。

 

逆に慈円の「愚管抄」は、頼朝殺害時の凄惨な状況を伝えている。

(こちらのデキストを使わせていただきました。家にあるはずなのに発見できず…)

 

サテソノ十日頼家入道ヲバ。伊豆ノ修禅寺云山中ナル堂ヘヲシコメテケリ。

 

サテソノ年ノ十一月三日。終ニ一万若ヲバ義時トリテヲキテ。藤馬ト云郎等ニサシコロサセテウヅミテケリ。

 

サテ次ノ年ハ元久元年七月十八日ニ。修禅寺ニテ又頼家入道ヲバ指コロシテケリ。

 

トミニエトリツメザリケレバ。頸ニヲヲツケ。フグリヲ取ナドシテコロシテケリト聞ヘキ。トカク云バカリナキ事ドモナリ。イカデカイカデカソノムクイナカラン。

 

愚管抄 第六巻

古典文学電子テキスト検索β

 

【てきとーな意訳】

 

建仁三年九月?)十日、出家した頼家を、伊豆の山中にある修禅寺に追放した。

 

その年の十一月三日、義時は一幡様を、藤馬という郎等に命じて刺殺させ、埋めさせた。

 

その翌年の元久元年七月十八日、頼家を刺殺した。

 

すぐには殺せなかったので、首に紐をかけ、陰嚢を(切り?)取る(押さえる?)ようなことまでして、やっと殺したと伝え聞く。

 

どうにも言いようのないことばかりだ。

どうして報いのないなどということがあろうか。このままで済むはずがない。

 

……

 

吾妻鏡」が書き残さなかった殺害時の詳細が、なぜ都の慈円に伝わっているのかは分からない。

 

ドラマではあまり描かれていないけれども、鎌倉には朝廷側の目がたくさん入り込んでいて、何かあれば逐一後鳥羽上皇に伝えられていたのだろうか。

 

愚管抄」に出てくる義時の郎等の「藤馬」(とうま)は、ドラマで善児を「お師匠」と呼んでいたトウに当たるのだろう。

 

ドラマでは、そのトウが、傷を負った善児に代わって、頼家にとどめを刺していたけれども、クビに紐をかけたり、わざわざ陰嚢をどうこうしたりはしていない。

 

トウにとっては、両親の仇である師匠の善児を討つ絶好の機会だったわけだから、頼家の陰嚢などに構っている暇はなかっただろう。

 

では、「愚管抄」の藤馬という郎等は、なぜそんな猟奇的な殺害方法を取ったのか。

 

いくら謀反人だといっても、頼朝の嫡男を殺す方法としては、不適切すぎる。義時がわざわざそんなことを命じるとは思えないから、個人的に頼家に恨みでもあったのだろうか。あるいは、恨みを持つ誰かの息がかかっていたのか。

 

仮に恨みが理由だったとしても、なんだか段取りが悪いというか、不器用感の漂うやり方ではある。

 

  • 首に紐をかける。
  • 陰嚢をどうにかする(握る、押さえる、切り取る?)。
  • 刺殺する。

 

大暴れする成人男性相手に、これを一人でやるのは大変だ。最低でも3人は人手がいるだろう。

 

でも、刺客が3人以上いたとして、病み上がりの頼家相手にそこまで苦戦するものなのだろうか。修禅寺に送られた藤馬という郎等の一行は、よほど荒事の経験のない、戦闘の素人だったのか。

 

ドラマでは猿楽鑑賞中に襲われていたけれど、南北朝期の史書『保暦間記』では、頼家は入浴中に暗殺されたと書かれているという(Wikipediaの「源頼家」の記事による)。入浴を世話するために仕えていた、非戦闘系郎等による凶行と考えると、手際の悪さにも納得できる。

 

案外、ドラマと同じように女性の刺客だったのかもしれない。

 

 

(_ _).。o○

 

毎度蛇足の歴メシコーナー。

 

今回は修禅寺で頼家が惨殺される回なので、食事シーンがあることを全く期待していなかったのだけど、予想外に食べ物の出番が多かった。

 

一番印象的だったのは、義時と、弟の時房、三浦義村が、カジュアルな感じで長火鉢を囲み、串に刺した焼き魚を食べながら、白いお椀で酒を飲みつつ、話し合うシーン。

 

長火鉢の縁に小皿があって、蕪を薄切りにしたような白いものが載っている。浅漬けか、塩もみしただけだけのものか。ちょっと美味しそうだった。

 

 

 

長火鉢は江戸時代によく使われていたようで、時代劇でよく見かけるけれども、平安時代に存在していた「炭櫃(すびつ)」も、長火鉢的なものだったようだ。平安時代からそんなに時間の経っていない鎌倉時代武家の家にあったとしても不思議ではない。

 

私は実物を見たことがないれけども、令和の世になっても実用品としてAmazonでも売られているようだ。愛好家がいるのだろう。

 

 

 

同じ白いお椀で、時政と牧の方が晩酌をしているシーンもあったけど、こちらでは肴はなかった。食後だったのだろうか。

 

善哉が母親のつつじと一緒に、笑顔で食事しているシーン。食器は黒い塗り物で、皿の一つに大豆っぽい色の豆が盛り付けられている。煮豆だろうか、煎り豆だろうか。他のお椀の中身は残念ながら不明。

 

大豆が日本で広く栽培されるようになったのは鎌倉時代からだそうで、それより前は西日本でしか作られなかったらしい。義時の頃の鎌倉では、まだ下々の食卓にはのぼりにくい、レアな食材だったかもしれない。

 

いろいろあって鬱屈した義時が、和田義盛の家を訪ねて、たまたま居合わせた運慶と一緒に酒を飲むシーンでは、義盛が巴を手伝って肴をこしらえようとしていたけど、残念ながら、何を作ったのかは分からなかった。義盛と巴のことだから、きっと豪快かつ素朴な一品だろう。