氷室冴子「いっぱしの女」ちくま文庫
氷室冴子氏のエッセイは、小説のほうの文章とはひと味ちがって、かなり辛辣な、小気味よい毒舌家のにおいがする。
そのとき、いみじくも悟ったのは、的はずれな評論は、作者だけではなく読者をも傷つけるということだった。
わたしは確かに、少女漫画を材料にした"少女論"や"社会学的分析"なんてものに、ずいぶん傷ついたような気がする。
それは、自分が好きなものをすんなり受けとめない厳然とした価値観があると知ることであり、その価値観にしがみつく人々が、自分たちのコトバでわかるまで噛みくだき、彼の唾液をまじらせ、調味料をふりかけ、飲み下し、あげくに、
「まずい。うまい」
と勝手にきめつけてしまうずうずうしさや、好きな作品を----コトバは悪いけれど強姦されてしまう無残さを、まのあたりにすることだった。
(「やっぱり評論も読みたい」より引用)
「少女論」とかマンガの社会学的分析が流行りだした頃というと、十年ちょっと前だろうか。
当時いろいろと書店にその手の本が並んでいたけれど、私はとうとう一冊も読まなかった。ちっともおもしろくない分析の切り口をひけらかすような押し売り評論を毛嫌いしていた時期で(いまだって好きじゃないけど)、「そんなものは、自分のアタマで考えるよ」と、ハナで笑っていたからである。
近年、多少なりとも評論や文学書を面白がって読むようになったのは、本を読みたくてたまらなくなるような作品紹介の文章に出会うことができたからである。おかげで、よい文芸評論に出会うことは、好きな作品に出会うのと同じぐらいうれしいことなのだと、知ることができた。
氷室冴子氏も、「同じ美意識やちがう価値観とぶつかる興奮をあじわ」わせてくれるような評論を、積極的に待ち望んでいるとして、この文章を結んでいる。
わたしはたしかに、読んだ小説の数だけ評論も読みたいのだ。それも、とびっきりおもしろいのを。
私もいっぱい読みたい。
作品がばっちい唾液にまみれたりしていない、すてきな,評論を、せっせと探してみようと思う。
( 1996年1月25日)