湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

大河ドラマ「どうする家康」(8)三河一揆でどうする!

 

NHK大河ドラマ「どうする家康」第8回「三河一揆でどうする!」を見た。

 

 

不入の権を認められている寺から強引に年貢の取り立てるという悪手のせいで、1563年(永禄6年)三河一向一揆が起こる。

 

さらに、それに連動して謀反を起こす者たち出たため、家康は窮地に陥る。

 

一向一揆を起こしているのは、浄土真宗本願寺教団の門徒衆。

 

三河には熱心な門徒が多かったらしい。

 

本證寺に残されている「本證寺門徒連判状」(1549年)には、本證寺第九代目の住職となった「あい松」(玄海と推定される)を支持する有力な武士門徒115名の署名があるという。

 

115名のなかには、松平の家臣もいれば、今川氏や吉良氏、水野氏に仕えるものもいたという。

 

つまり、領主の立場や対立関係に左右されない結びつきがあったことになる。

 

ところが、連判状の「あい松」(玄海)は、1561年に加賀一向一揆に参戦し、戦死してしまう。

 

空誓は、顕如浄土真宗本願寺派第十一世宗主)の猶子となった上で、玄海の娘婿となり、17歳で本證寺第十代目の住職となったという。

 

顕如といえば、信長包囲網の勢力に加わって、石山本願寺に籠って一向一揆を起こしまくり、延々と戦争をしていた武闘派にして知能派の僧侶という印象がある。

 

というか、歴史音痴なので、それしか知らない。

 

なんで知ってるかというと、「信長のシェフ」という漫画に、そういうキャラの顕如が出てきたから。

 

 

もうだいぶ前に読んだ作品なので細部を忘れてしまっているのだけど、現代日本からタイムスリップして、信長の料理人なってしまった主人公ケンの元カノが、顕如に拾われて愛人をやりながら料理もしているというエピソードがあったからだ。

 

いま思うと、ものすごいストーリーだ。

途中で読むのをやめてしまったけど、あのタイムスリップしちゃったシェフたち、その後どうなったんだろう。

 

脱線した。(´・ω・`)

 

史上初の一向一揆は、1466年だったというから、応仁の乱(1467年)より早かったことになる。三河一向一揆からだと、100年近くも前になる。

 

浄土真宗本願寺派は、第8世宗主だった蓮如(1415-1499)の精力的な布教によって、各地で力を増していったという。

 

蓮如親鸞嫡流だそうで、その親鸞の母親は、八幡太郎義家の孫だと言われているようだ。親鸞が得度したのは治承5年(1181年)、源頼朝が伊豆で挙兵した翌年だという。

 

蓮如の父系を遡ると、8代前に親鸞の末娘に行き当たる。

 

親鸞(1173年生まれ)→覚信尼親鸞の末娘)→覚恵→覚如→従覚→善如→綽如→巧如→存如蓮如(1415年生まれ)

 

蓮如には妻が5人いて、27人もの子をもうけたという。

 

とはいえ、いわゆる一夫多妻というのではなくて、妻に次々と死なれた結果、こういうことになったようだ。

 

第一夫人の子が7人。(31歳くらいで死亡)

第二夫人の子が10人。(32歳くらいで死亡)

第三夫人の子が1人。(30歳くらいで死亡)

第四夫人の子が2人。(年齢不詳)

第五夫人の子が7人。(53歳くらいで死亡)

 

(以上、Wikipediaによる)

 

なんというか、最初のほうの妻たちの早世は多産のせいじゃないかという気がしてならないけど、真相は分からない。

 

第五夫人は蓮如より50歳若く、最後の子どもは蓮如が83歳の時に生まれたようだ。

 

大変に精力旺盛な人物だったのは間違いない。

 

息子たちはみんな、浄土真宗の僧侶になったようだ。

 

顕如(1543年生まれ)は、蓮如の玄孫。

空誓(1545年生まれ)は、蓮如の曾孫。

 

親鸞嫡流である蓮如の子孫なのだから、遡ればみんな八幡太郎義家の子孫であり、源頼朝義経たちの遠縁ということにもなる。

 

戦に縁があるのは、隔世遺伝だったりするのかもしれない。(´・ω・`)

 

そう思うと、「どうする家康」が「鎌倉殿の13人」の時代を超えた続編のような気がしてきて、ちょっと面白い。

 

(_ _).。o○

 

ドラマでは、家康の近臣の一部が一揆側につき、家康の元に残った者たちも、寺と主君との関係の板挟みに苦しんでいた。

 

家臣たちの迷いに付け込むようにして、空誓側の歩き巫女が調略をかけてくる。

 

ミステリアスな歩き巫女の千代(古川琴音)は、謀反を起こした大草松平氏などとも繋がって暗躍しているようだった。

 

歩き巫女というのは、特定の神社に所属せずに宗教活動を行う女性たちのことのようで、旅芸人や遊女を兼業する場合もあったという(Wikipediaによる)。

 

甲斐国の武田氏のところでは、訓練された巫女まちが情報収集を担っていたようで、それが「くの一」と言われるようになったんだとか。

 

本證寺で歌って踊っていた歩き巫女たちは、芸人と情報部員を兼業しているように見えるけれど、武田信玄の手先だったりするのだろうか。

 

この時期の武田信玄は、まだ今川と同盟を結んでいるけれども、信長と武田信玄は友好的な関係だったらしい。

 

美濃攻略を目指す信長は、美濃と領地を接する武田氏との対立を避けるために、自分の養女を武田勝頼に嫁がせたのだとか。武田信玄川中島上杉謙信とやり合うので忙しいから、信長と対立したくなかったのだろう。

 

友好や同盟といっても、戦国武将たちが食うか食われるかのせめぎあいの中で結ぶ関係なのだから、状況が変われば簡単に破棄されることもある。

 

信玄にしてみれば、三河の国がごたついていてくれたほうが、これ以上信長が強大にならずに済むわけだから、家康を弱らせる方向で調略をかけたとしても不思議ではない。

 

ちなみに信玄は、三河一向一揆の8年後の1571年に信長包囲網に加わって出陣する際、顕如に、上杉謙信に対して一向一揆を起こすように要請したという。

 

もっとも謙信は、けしかけられた一向一揆を打ち負かした上で和睦し、信長を共通の敵として戦うことになったんだとか。

 

武田信玄、1573年没。51歳。

上杉謙信、1578年没。49歳。

 

この2人が、あと20年長く生きていたら、家康の人生はだいぶ違っていたかもしれない。

 

 

(_ _).。o○

 

毎度蛇足の歴メシコーナー。

今回は、「雑兵物語」という本に出てくる食事の話を引用してみる。

 

「雑兵物語」は、江戸時代初期に成立した雑兵たちのインタビュー集、という形式で書かれた、雑兵心得集。

 

雑兵たちが、当時の東国方言で従軍経験を語っているので、生々しい臨場感がある。

 

身分の低い兵たちの戦国事情なので、食事関連の話題は悲惨なものが多い。

 

「どうする家康」の三河の武士たちは戦争中に握り飯を食べていたけど、雑兵たちの話題に握り飯は出てこない。

 

荷宰料 八木五蔵

 

がいに大人数だ。十日余も押べいが、まだ押つくさない。跡も10日路もつづくべい程に、其故だ所で、小荷駄がでかくひっさげた。先へおつ付られない。こつちの人数は、四五日の扶持方は細首にひつかけた所で、三日や四日ばいは、馬を押付ないでも事は欠けまい。敵地だ又は味方だとて油断せないもんだ。此様な時は飯米に詰て、味方でも奪取るもんだ。鼻毛をのばいてひんぬすまれるな。げに小荷駄が二疋あいて空尻になつた。

 

其荷縄や桟俵をすてないでよくしておけ。芋の茎を荷縄になつて、味噌で煮て荷をひつからげて来た程に、其縄をひつきざんで水へ入、こねまはせば、汁の実にもなるべい。桟俵をば馬の粥にもすべい程によくひつ付けろ。

 

敵地へは、踏込と、あんでも目に見ゑ手にひつかかり次第にひつ拾うべい。とにかく陣中は飢饉だと思て、くらわれべい草木の実は云にや及ばない、根葉に至るまで馬にひつ付ろ。

 

松皮は煮くさらかして、粥にしてくらつたもよい。又大雨或いは川水などで細首の揉が萌えべいならば、植ゑて生ゑべい時、根共に取て、煮てくらったもゑいもんだ。

 

「雑兵物語 下 戦国雑兵のサバイバル術」(史学社文庫)より

 

【現代語訳】(ちょっとアレンジ)

 

兵站担当 八木五蔵談

 

えれえ大軍だ。十日余りも進軍したんでねえかと思うが、まーだ終わらねえ。あと十日も続くべ。だもんで馬に積んだ荷物が遅れて追いつかねえ。

 

こっちの人数は、四、五日分の支給米だったら細首に引っ掛けてるんで、三日や四日ぐらいなら馬が追いつかないでも食いもんにゃ困らねえが、敵地だろうが味方の土地だろうが、油断しちゃならねえ。

 

こういう時は、飯が足りなくなって味方からでも奪い取るようなことになるんだ。鼻毛伸ばして油断してると、盗まれっぞ。実際、荷運びしてた馬が二匹空いて、からっけつになっちまった。

 

おい、荷を縛ってた縄とか桟俵(さんだわら)とか、捨てねえで残しとけよ。芋の茎を荷縄にして味噌で煮てやつで、荷を縛ってきたんでな、その縄を刻んで水に突っ込んでこねくり回せば、汁の具にもなるべ。

 

桟俵は馬の粥にもするんだから、落とさねえように馬にくっつけとけよ。敵地に踏み込んじまったら、何だっていいから目に入ったもんや、手に引っかかったものは拾っとけよ。

 

とにかく戦の最中は飢饉だと思って、食えそうな草木の実は言うまでもねえ、根っこや葉っぱに至るまで、なんでも馬に積んでしまえ。

 

松の皮はくたくたになるまで煮込んで、粥にして食らってもいい。

 

大雨や川の水で濡れちまって、首に引っ掛けてきた(もみ)が芽を出したら、植えて育ててから根っこごと抜いて、煮て食うのもいいもんだぞ。

 

 

味噌で煮た芋の茎を兵糧にする話は、割と有名なので知っていたけど、松の皮の煮込みは知らなかった。

 

はたして人間は松の皮を消化できるのだろうか。(´・ω・`)

 

と思って調べてみたら、秋田の郷土菓子「松皮餅」というものが実在、販売されていることが分かった。

 

今に伝わる戦国時代の非常食!松の皮から作った秋田の郷土菓子「松皮餅」とは | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

 

今に伝わる戦国時代の非常食!松の皮から作った秋田の郷土菓子「松皮餅」とは

 

(略)

もし敵の包囲下にあって、籠城する側の糧食が尽きれば、籠城戦はその時点で決着がつく。そうならないよう、城を持つ者は万が一の籠城戦に備え、3年分の米は常に備蓄し、城内に栗や柿など実のなる木々を植え、塩魚といった保存食の確保に努めた。

 

さらに、そうしたストックが尽きた最悪の事態も想定して、様々な非常食も考案された。例えば、タニシの塩辛、雑草であるアカザ煮、藁の粉末など、現代人にとっては、想像するだけで食欲を失いそうなものが多い。

 

今回ご紹介したい「松皮餅」も、長期の籠城戦の際の非常食として開発されたものである。

 

これはその名のとおり、松の皮を材料に使った餅で、製法は松の粗皮の下にある白皮を煮て、穀物を混ぜて蒸したのち、臼でつくというものであった。

 

今回ご紹介したい「松皮餅」も、長期の籠城戦の際の非常食として開発されたものである。

 

これはその名のとおり、松の皮を材料に使った餅で、製法は松の粗皮の下にある白皮を煮て、穀物を混ぜて蒸したのち、臼でつくというものであった。城内に植えられた松の木は、城の美観を増すだけでなく、このような使い方があったのである。

 

もちろん、味については二の次、三の次。腹がふくれればよしとするものであったが、これを美味しい郷土菓子として改良を重ね、今に伝えているのが、秋田県由利本荘市内の鳥海地域。今では日本唯一の松皮餅の生産地である。

 

サライ.jp   2017年4月6日)

 

ちなみに「松皮餅」は、秋田県由利本荘市鳥海町にある道の駅「鳥海郷」に隣接する直売所「ほっといん鳥海」の通信販売でお取り寄せできるようだ。

 

道の駅 清水の里・鳥海郷/直売所ほっといん鳥海 通信販売

 

松皮餅、ちょっと食べてみたい…

 

話を「雑兵物語」に戻す。

 

雑兵たちは、どうやら脱穀していない籾米を支給されて、首からぶら下げて従軍しているらしい。

 

脱穀していない籾だから、濡れれば発芽する。それをちょっと植えて、もやし状態まで育ててから、収穫して煮て食うことを推奨している。

 

米を発芽させた「米もやし」には、でんぷんを分解して糖に変える糖化酵素が含まれていて、古代から飴を作るのに使われていたという。

 

八木五蔵さん推奨の米もやし粥は、たぶん、ほんのり甘かったのだと思う。それは、殺伐とした戦場でのささやかな楽しみだったのかもしれない。

 

 

 

(上下巻とも、Kindle Unlimitedで読み放題利用可能)

 

ドラマに直接関係していない蛇足が本編より長くなっちゃった気がするけど、もともとテレビが大の苦手な私が、毎週大河ドラマを見て感想ブログまで書くモチベーションを維持できているのは、食への好奇心が半端ないせいなので、これはもう仕様と思って諦めていただくしかない。ごめんなさい。