湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

大河ドラマ「どうする家康」(9)守るべきもの

1週間遅れで、NHK大河ドラマ「どうする家康」第9回「守るべきもの」を見た。

 

 

本多正信松山ケンイチ)が一向一揆側についた理由が、予想外に真っ当すぎて、びっくりした。

 

三河一向一揆(1563〜1564)の8年ほど前、自称「色男」の大久保忠世小手伸也)と一緒に盗賊狩りをしていた本多正信は、盗賊のアジトで、幼馴染のお玉(井頭愛海)と再会する。

 

お玉は、戦乱の最中に攫われて正信と生き別れたあと、遊び女に身を落とし、本證寺寺内町で暮らしていたらしい。

 

盗賊たちの元で大怪我をしてしまったお玉は、慕いあっていた正信に介抱されることも、苦しみばかりのこの世で生き延びることも拒否して、仏様の元に行くことだけを願っていた。

 

そんな経緯もあって、正信は、本證寺が貧しい民の最後の拠り所であることを深く理解していた。

 

その本證寺を武力制圧しようとした時点で、家康という主君は、正信にとって、のび太君っぽいダメ君主であるに止まらず、躊躇なく射殺できる怨敵になってしまったのかもしれない。

 

家康が一向一揆側と和議を結び、謀反を起こした家臣たちを許しても、正信は再び臣従することを拒否し、民を守る義務を果たさない君主に存在意義を認めないと言い切り、家康こそ悔い改めるべきだと激しく罵る。

 

けれども、家康が民の痛みを知って葛藤していることと、民のために国を立て直す覚悟を持っていることを知った正信は、臣下としての礼を尽くした上で、追放処分を受ける。

 

歴史上の本多正信が、どういう気持ちで一向一揆に加担したのかは分からない。お玉という女性は架空の存在なのだろうし、一向一揆には正信の弟も加わっていたようだし、正信の父親の本多俊正は、一揆と同時期に謀反を起こした酒井忠尚の家臣だったらしいので、正義感以外の事情もあったのかもしれない。

 

けれども、三河を追放になったあとも、わざわざ加賀一向一揆に加わって織田信長と戦ったという話もあるようなので(Wikipediaによる)、戦国時代の権力構造に対して、何かしら思うところはあったのかもしれない。

 

本多正信は、本能寺の変の前までには、しれっと家康の元に戻り、家康に「友」と呼ばれるほどの間柄になるという。今回、お互いの本音をぶつけあっていた二人の間には、友情の萌芽が確かに見えていたように思う。

 

 

(_ _).。o○

 

 

毎度蛇足の歴メシコーナーなのだけど…

 

一揆収束後に、お城での炊き出しシーンがあったのに、鍋やお椀の中身がほとんど見えなかったので、ネタがない。😭

 

お城の女性陣がかき混ぜていた大鍋は、きっと八丁味噌で何かを煮込んでいるのだと思うのだけど、具の見当がつかない。

 

ネタ探しに17世紀前半に刊行された「料理物語」という本を斜め読みしていたら、「煮物之部」に、味噌で煮込む料理がいくつかあった。

 

[すきやき]

たいをあつくつくりをき、だしにてみそをこうたて鍋に入にゑ候時、そこに入、(後略)

 

なべやき]

みそしるにてなべにて其ままに申候也、たい、ぼら、こち何にても取合せ候

 

[れうりどうふ]

は ねりみそにだしくはへよし、うはおき、はながつほ、くりしやうが、くろごま、くるみなとをきてよし

 

[いとこに]

あづき、ごぼう、いも、大こん、とうふ、やきぐり、くわいなど入、中みそにてよし、(後略)

 

「料理物語」

雑芸叢書 第一 (国書刊行会刊行書)

国会図書館デジタルコレクション

 

タイ、ボラ、コチ、豆腐、小豆、ごぼう、いも、大根、くわい…

 

いろんな食材を味噌で煮ている。

 

「料理物語」の著者は不明だそうだけど、上方方言が使われているので、京都か大阪の料理人が書いたのではないかと言われているようだ(Wikipedia)。

 

三河一向一揆から80年ほどあとの上方の食卓には、岡崎城に負けないくらい、味噌味のお料理が並んでいた……のかどうかは分からないけど、味噌煮が広がっていったのは間違いないと思う。

 

(_ _).。o○

 

 

お腹すいた。(´・ω・`)