湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

介護ではない日記(3)

 

父を送ってから、ずいぶん日が経ってしまった。

 

火葬の日のことを、なかなか書く気になれずにいたのだけど、どんどん記憶が薄れてしまいそうなので、少しでも書き留めておくことにする。

 

5月7日(水曜日)

 

出棺式のため、末っ子と二人、朝8時前に、葬儀社のホールに向かった。

 

(_ _).。o○

 

アプリで家の前に来てもらったタクシーに乗り込むと、

 

「このあいだ、お父さん、間に合いました?」

 

と運転手さんが言うので、父の危篤の知らせで駆けつけたときのタクシーだと分かった。

 

「あー、残念ながら、間に合わなかったです…」

「それは申し訳ないことを!」

「いえ、たぶん電話もらった時には、もうダメだったんだと思うので、運転手さんのせいじゃ全然ないです」

「お悔やみ申し上げます…これからお葬式ですか?」

「いえ、葬儀はなしで、出棺式してもらって、そのまま火葬場なんです」

「そうでしたか…こんな時ですけど、お客様、あの日、傘忘れていかれたんですよ」

 

そう、母の傘を借りて家を出たはずなのに、帰宅したときに、手に持っていないことに気づいたのだ。忘れたのは病院だろうか、葬儀社だろうかと思い巡らしていたけれど、タクシーだったのだ。

 

「今日の夕方あたりに、玄関のとこに届けておきますから」

「ありがとうございます。助かります」

 

三月に実家に来て以来、こうした小さな偶然に、いろいろと助けられている気がする。

 

(_ _).。o○

 

葬儀社のホールには、従兄弟夫婦が先に来てくれていた。

 

出棺式の前に、斎場についてからの細かな段取りの説明があった。霊柩車の停車位置や、棺と一緒に入場するコース、火葬前や火葬中の待機場所、うちの家族のために取った個室で、食事が取れることなどを聞いた。

 

出棺式では、用意していただいたたくさんのお花と、好きだったお饅頭を少しだけ、父の棺に入れてから、皆で手を添えて蓋を閉じた。

 

霊柩車に運び込むときには、従兄弟と末っ子が呼ばれて、葬儀社の方々と一緒に担ぎ上げた。

 

「わしもやらされるとは思わんかった」

 

と、あとから末っ子(娘)が言っていたけど、もしかしたら、葬儀社の人たちに「孫息子」と思われていた可能性がなくもないと、内心思っている。

 

それから、末っ子と私は霊柩車に同乗し、従兄弟夫婦はタクシーで、火葬場のある斎場へ向かった。

 

途中、若い頃の父の職場あたりを通過した。

 

そのあたりは、昔から時折熊がよく出る地域でもあったはずで、まだ病院で意識のあった頃の父が、熊出没のニュースに強く反応していたことなどが思いだされて、涙が滲んだ。

 

火葬場に到着すると、父の棺は、物々しい運搬器具に乗せられて、私たちより先に建物の中に運ばれていったように記憶している。

 

残された私たちは、先に火葬場に来ていた葬儀社の女性に案内されて中に入り、いろいろな説明を受けた。

 

その後のことは、詳細には思い出せなくなっている。

 

断片的に残っている記憶を書き留めておく。

 

私たちの後から搬送されてきた、どなたかの棺を迎えるために、喪服のご親族の方々が大勢並んでいるのを眺めて、賑やかだなあと思ったこと。

 

別の火葬炉のほうから、お坊さんの読経が聞こえてきたこと。

 

私たち家族のための個室に案内されて、そこで料理を頼んで食べたこと。

 

私はカツカレーを注文した。子どものころから、元気を出す時にはカツカレーと決めていて、どんなに食欲のないときでも、不思議と喉を通るのだ。

 

味は覚えていないのに、「あ、おいしいかも」と思ったことと、しっかり完食したことは記憶に残っている。

 

従兄弟夫妻や末っ子と、ぽつぽつと会話をしながら、父の火葬の済むのを待っていた。

 

従兄弟は、来る時に来た道が、父が誇りを持って働いていた職場のそばを通っていたことを覚えてくれていて、

 

「おじさん、最後にここを見られて、よかったよな」

 

と話してくれた。

 

父の火葬は、二時間かからずに、あっけなく完了した。

 

4月6日に入院してからずっと、父は栄養点滴もなく、一か月近くも生理的食塩水だけで過ごしていた。それで痩せてしまっていたから、早く終わってしまったのだろうか。

 

仕方のないことだったとわかってはいても、いろいろなことを思い返すと、いまでもやりきれない気持ちになる。

 

葬儀社の方の案内で、父の火葬炉へ向かう。

 

父の骨の乗った台からは、近寄り難いほどの熱が放射されていた。それでも近づいて、末っ子と一緒に、その場で教えられた作法通りにお骨を拾う。

 

大きいまま残っていたお骨は、火葬場の職員の方が、なんらかの方法で細かく砕いてくださった。その場を見ますかと声をかけられたけれど、無理だと思ってお断りした。

 

従兄弟夫妻も一緒に、細かなお骨まで拾い集め、ほとんどが骨壷に納められると、その一番上に、火葬場の方が頭の骨を乗せて、閉じてくれた。

 

いろいろな事が済み、葬儀社の方があらかじめ予約してくれていたタクシーに乗り、自宅に戻った。父の骨箱は私が、遺影は末っ子が持った。

 

骨箱が、腕にとても重く感じられたのを、覚えている。

 

 

(_ _).。o○

 

実家に着いてから、何をどうしたのだったか、もうよく思い出せなくなっている。

 

両親がよく飲んでいた麦茶をヤカンでわかして、従兄弟夫妻に出して飲んでもらったような気がする。

 

末っ子は、床の間のある二階和室で、葬儀社さんにもらった祭壇を組み上げて、遺影と骨箱の置き場を整えてくれていた。

 

父の存命中に、同じ場所に飾ってあった雛人形の七段飾りを解体・収納した経験が生きたと、末っ子は言っていた。不器用な私一人では出来る気がしなかったから、本当に助かった。

 

亡くなる前の父が、宅配便に出す段ボールを下手くそに梱包しようとしている私を見かねて、代わりにやってくれたとき、しみじみと「不器用だな…」と呟いていたことがあった。

 

いまでも、あの「不器用だな…」の声を思い出すと、涙が滲む。

 

葬儀社さんの祭壇セットには、火たてや蝋燭立ても入っていたけど、末っ子と相談して、火は一切使わないことにして、おりんだけに活躍してもらうことにした。

 

 

 

従兄弟夫妻は、出来上がったばかりの祭壇に手を合わせてくれてから、帰宅していった。

 

その日の夜は、末っ子がUber eatsでお寿司を取ってくれたように記憶している。

 

 

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他にも、いろいろなことがあったはずだ。

 

火葬の済んだことを入院中の母に電話で知らせたのは、当日のことだったはずだけど、何をどのように伝えたのか、思い出せない。

 

末っ子と二人、父の遺したものの溢れる実家の中を見回して、「これ、少しずつでも片付けていかないとね…」と話したことも。

 

末っ子は、自分が滞在している間にやってしまおうと言って、両親の寝室だった和室の大掃除を断行。昭和の掃除機をフル活用しつつ、溜まっていた埃を撤去した。未使用に近い父の肌着類などは、資源回収に出してもらった。処分することで心は痛むけれども、後になればなるほど、きっともっと辛くなるということも分かっている。

 

 

(_ _).。o○

 

 

思い出せたら、また書くかもしれない。

 

 

 

 

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