3月26日に放映されたNHK大河ドラマ「どうする家康」第12回「氏真」を、一か月遅れで見た。
(Amazonプライム・ビデオ、NHKオンデマンド)
今川氏真の「その後」について、歴史音痴の私が知っていることは、二つ。
今川が滅びても、氏真は死なずに生き延びたということ。
そして、信長や家康と、なぜか仲良くお付き合いして、一緒にご飯食べたり、蹴鞠とかやったりしていたらしい、ということ。
「どうする家康」での、これまでの氏真の狂王子っぷりからは想像が出来ない後半生なのだけど、なにがどうしてそうなったのか。
そんな歴史音痴の疑問に対して、ドラマがどんな回答を見せてくれるのか、楽しみにしつつ視聴。
結果、これまであんまり興味を持てなかった今川氏真に、親しみを持てるようになった。
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父の今川義元亡き後、家康や家臣たちの離反に激怒していた氏真を本当に苦しめていたのは、父に将としての才能を認められなかったという絶望感だった……
というふうに、ドラマの氏真は描かれていた。
スネ夫混じりのジャイアン系(お育ちのいい俺様)だと信じて生きていたのに、実はのび太(家康)より劣ると宣告されたのだから、それはショックが大きかったことだろう。
しかも義元は、桶狭間直前に、あからさまに家康を重用して見せた上で、そんな致命的な宣告を息子にかまし、全くアフターフォローもしないまま、信長に首を取られてあの世に行ってしまった。
桶狭間であの世に直行したのは今川義元の本意ではなかっただろうけど、もう少し早く後継のケアができなかったものだろうか。
まあ、育児どころじゃなかったのだろうけど。
戦国武将だし。
今川・北条・武田の三国同盟を破棄した信玄は、1568年に駿河に侵攻し、駿府をあっさり落としてしまう。
氏真の母親は武田信玄の姉(定恵院)だという。
信玄は、武将としての才能のない甥に見切りをつけて、この世から退場させることにしたようだ。
一方で、氏真の妻の糸(早川殿)の父親である北条氏康は、娘婿を助けようとして援軍を出していたという(Wikipediaによる)。
氏真は妻とともに駿府から逃げ延びて、掛川城に入ったものの、徳川勢に包囲され、延々と戦い続けることになる。
父の義元に将の才がないと言われた氏真は、土壇場で、狂王子からバーサーカーへとクラスチェンジしたらしい。
自ら最前線に立って弓を取り、味方を鼓舞して敵を次々と射殺すドラマの氏真は、父の義元よりも、はるかに戦国武将らしかった。
勝ち目のない戦にのめり込む氏真を見かねた正妻の糸は、北条に身を寄せるようにと説得するけれども、氏真は耳を貸さない。どうやら夫婦の間にはかなりの幅の隙間が空いているようだった。
糸がが今川氏真に嫁いだのは、1554年、氏真が17歳くらいの頃だという。
けれども二人の間にはなかなか子供ができなかった。
第一子である長女が生まれたのは、武田信玄の駿河侵攻直前の、1567年ごろだというから、結婚してから13年近く子どもができなかったことになる。
13年間の夫婦生活がどんなものだったかは謎だけれど、若いころの氏真は、叶わぬ恋心を歌に詠んでいたらしい。
Kindle Unlimited(詠み放題)で見つけた「評伝 今川氏真」(嵯峨良蒼樹 著)という本に、次の三首が引用されていたので、孫引きさせていただく。
初恋
恋しさはきのふのわれよあすまての命はうきに猶かかるとも
待恋
あはれなりあふをかきりと待かほにさしてもこよひきえぬ我かは
契恋
かはらしよ我もといひし言葉(ことのは)にうちまかせぬは心なりける
【怪しいねこたま意訳】
初恋…
こんな気持ちを知らずにいた、昨日の自分が恋しいよ。
明日まで生きることすらウザいけど、このまま死なずに生きるしかない。泥沼みたいな憂鬱な気持ちのままで。
待恋…
もう無理だ…
逢瀬は今夜が最後と決めて待つのは辛すぎる。
だけど、こんなに苦しいのに、この身は消えない。耐えるしか無いのか…
契恋…
僕の気持ちはずっと変わらない。
君も同じだと言ってくれた。
そんな言葉で約束しても、素直に信じられないのが心なんだよな…
これらの歌は、氏真が、三条西実澄や北条氏康とともに、同じ題で詠んだ歌だという。
詠んだ時期は分からないけど、三条西実澄は、1552年以降、都を離れて駿河に滞在して、武田信玄の駿河侵攻(1569年)の年に都に戻ったようなので、1552年から1569年の間なのだろう。もしかすると、氏真が氏康の娘と結婚した1554年前後のことだったかもしれない。
題詠(前もって決めてある題に合わせて歌を詠むこと)なのだから、本人の心情をストレートに詠んだわけではないのだろうけど、妻となる女性の父親の前で、禁断の恋の歌を詠むというのは、かなり際どい行為のような気がする。
氏真、何を考えていたんだろう。
ドラマでは、瀬名が氏真の思い人ということになっていて、三国同盟のために北条の娘と政略結婚したあとも忘れられず、瀬名を側室にと父の元康に願い出て、あっさり却下されていた。瀬名が家康と結婚しても恋着し続け、家康の離反後は強引に妾にしようとしていた。
そのあたりは脚本家の捜索なのだろうけど、上のような歌を見てしまうと、無い話ではないように思えてくる。
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膠着状態だった掛川城の攻防は、家康側の勝利で終わった。
自害しようとした氏真だけれども、家康に自害を止められ、妻の糸から義元が言い遺した言葉を聞いて、父が自分の努力を認めていたことを知り、妻とともに生き延びる決意をする。
自分の言葉のせいで屈折した嫡男のアフターフォローは嫁まかせ、その後の暮らしは家康まかせ。ドラマの今川義元、なかなかのダメ親父だった。
実際には、掛川城の開城は戦闘によるものではなくて、家康が氏真と和睦したためらしい(Wikipediaによる)。
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氏真は家康の庇護を受けて生き延び、晩年は家族と共に江戸で暮らしたらしい。
今川の子孫は、代々文化レベルが高かったために幕府で「高家」(儀式や典礼を司る役職)として重用され、男子直系が幕末まで続いたという。
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お約束の歴メシコーナーだけど、毎度お馴染みの握り飯以外に、ネタがない…
服部半蔵が、伊賀者たちに持っていこうとした竹皮のつつみの中身も、たぶん握り飯だろう。
次回以降に期待しよう……