湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

大河ドラマ「どうする家康」(7)わしの家

NHK大河ドラマ「どうする家康」第7回「わしの家」を見た。

 

 

今川家から妻子を取り戻したけれども、家康の受難は続く。

 

今川との殴り合い。

戦費の不足。

三河の有力武士たちの反乱。

一向一揆

信長の愛と圧…

 

家康の人生って、大半が受難期間みたいなものだとは思っていたけれども、ドラマで畳み掛けるように試練が襲ってくる様子を見せられると、つくづく気の毒になってくる。

 

もっとも戦国時代で本当に大変だったのは、歴史に名前の残らない民衆だったはずだ。

不作続きなのに重い年貢を取られて、戦争になれば荷運びなどの強制労働にも駆り出されるというのでは、まともに暮らせるはずがない。家族を失うことも少なくなかっただろう。

 

けれども、松平家嫡男として生まれ、諸国とぶつかり合う人生しか知らない家康の意識には、武家以外の事情がなかなか入ってこないようだった。

 

特定の寺社の年貢を免除する不入の権(守護不入の制度)に疑問を持った家康は、一向宗本證寺に潜入することを思いつく。

 

要塞都市のような本證寺の境内では、毎日のように市が開かれ、岡崎城下とは比べものにならないほど豊富な物資が売り買いされ、賑わっていた。

 

生活の安全を保証され、仏教に帰依しながらも享楽的に生きる農民たちを見た家康は驚愕する。

 

本證寺の空誓という僧侶は、自分を慕う民衆の前で、武士の政(まつりごと)をあからさまに批判して見せた。その教えに共感する聴衆のなかには、家康の家臣たちも混じっていた。

 

農民のふりをして空誓と面会した家康は、武士は好きで戦をしているのではなく、民を守るために命懸けで戦っているのだと言い、戦をせずに済むにはどうすれば良いのかと問う。

 

空誓は、家康の問いにはまともに答えず、武士と僧侶は、生きている立場が違うと言うだけだった。

 

苦しみを与える側が武士であり、救う側が僧侶であると。

 

空誓は家康の正体を察した上で、敵対する意志を明らかにしたのかもしれない。

 

でもこの空誓という人、なんだかんだで家康と関わり続け、晩年には江戸城に招かれたりもするのだとか。

 

ちなみに、空誓は1545年生まれ。

家康(1543年生まれ)より、二つ年下ということになる。

 

三河一向一揆(1563年)のときには、18歳くらいだったようなのだけど……

 

ドラマの空誓は、どんだけ目を細めても、10代には見えなかった。

 

空誓役の市川右團次さんは、1963年生まれとのこと。私より一つ下。ということは、今年還暦。

 

家康役の松本潤さんは、1983年生まれ。

 

年下とは一体……

 

うん、気にしたら負けだ。(´・ω・`)

 

何はともあれ、家臣たちから止められたにもかかわらず、寺社から強引に年貢を取り立てようとした家康は、三河一向一揆の引き金を引いてしまうことになる。

 

三河全体を「わしの家」と思う気持ちから、「家康」と改名したけれども、家臣や民衆をまとめ上げるまでの道のりは、まだまだ遠いようだ。

 

 

(_ _).。o○

 

半ば脅されたようにして結んだ信長との清洲同盟が、家康の助けになるものだったのかどうか、歴史音痴にはよく分からない。

 

これから美濃を攻略しようとする信長は、家康に三河をしっかり平定するようにと、わざわざ太い釘を刺しに来ていた。

 

尾張織田氏にとって、三河は防波堤でもある。

三河が落とされでもしたら、今川と同盟を結んでいる甲斐国武田信玄が攻め込んで来るかもしれない。

 

そんな危険を抱えていたら、美濃攻略が難しくなってしまうわけだから、信長が家康に圧をかけるのも当然ではある。

 

ドラマでは、信長が「鷹狩り」と称して三河に乗り込み、内乱の芽を察知して手助けをしていた。ジャイアン信長としては、家康のび太への破格のサービスだったのかもしれない。

 

けれども、実際に出兵して謀反を平定するのは家康だ。

 

所領の三河を守るために働けば働くほど、隣国の信長を利する結果になるというのが、なんだか痛い。

 

これでは、かつて今川の配下として使い回されていたのと同じで、結局信長にいいように使われているのと大して変わらない。

 

信長と家康との同盟関係は、やがて対等なものではなくなり、主従関係になっていくものの、信長が本能寺で討たれるまで続き、その後は豊臣秀吉との間に受け継がれていくことになるという。

 

どんなに耐え忍んで頑張っても、誰かの配下になる道ばかりが開けてしまう家康の内心のジレンマは、相当なものだったのじゃなかろうか。

 

(_ _).。o○

 

反乱を起こしたとドラマで言われていた三河の武将は、次の五人。

 

松平昌久……大草松平家の四代目。先代の松平昌安の時に、岡崎城松平清康(家康の祖父)に奪われたという因縁がある。一向一揆に加担。

 

松平家次……桜井松平家今川義元の家臣だった。一向一揆に加担。

 

酒井忠尚……三河上野城主。松平広忠(家康の父)の家臣だったけれども、大きな勢力だったため、今川義元に家康の家臣としてではなく、個別に扱われていたらしい(Wikipedia)。1663年に、家康に対して挙兵する。一向一揆に加担したかどうかは分からず、家康が一向一揆と和議を結んだあとも抵抗を続けていたとか(Wikipedia)。

 

荒木義広……家康の異母妹(市場姫)の夫だけど、吉良義昭と一緒に一向一揆に加担。

 

吉良義昭……今川氏の配下だったけれども、今川氏から離反した家康に攻められて降伏。1563年の三河一向一揆が起きると、それと同盟を結んで家康と戦ったけど、負けた。のちに、兄の子孫(吉良上野介)が赤穂浪士に討たれて死ぬ。

 

彼らだけでなく、家康に近しい家臣のなかからも、一向一揆側につく人々が何人も出るようだ。

 

本多正信松山ケンイチ)もその中の一人なのだけど、三河一向一揆が平定されると、正信は出奔して加賀の一向一揆にも加わるらしい。その後、本能寺の変あたりで、しれっと家康のところに戻るのだとか。

 

そのあたりの経緯について、ドラマではどんな理由づけがされるのか、楽しみだ。

 

 

(_ _).。o○

 

毎度蛇足の歴メシコーナー。

今回は、握り飯以外の食料品がたくさん見られた。

 

とくに目立っていたのは、丸っこい形の、なす。

 

家康は、「折戸なす」という丸なすを好んでいたというから、それかもしれない。

 

ドラマの岡崎城の台所では、女性陣が丸茄子を切って下ごしらえをしていた。

 

愛知県の郷土料理に「なすの丸煮」というのがあるようだけど、ドラマではだいぶ細かく切っていたから、丸煮ではなさそうだ。汁物か、味噌焼きだろうか。

 

信長が安土城で家康をもてなした時の料理の中に、「なすのしぎ焼き」があったという記録もあるのだとか。

 

当日のメニューを記録した「安土御献立」という文書が、「続群書類従」に掲載されているそうなのだけど、そんなものは大学の図書館にでも行かないと見られない。

 

群書類従」ならKindle Unlimited(読み放題)で利用できるのだけど、「続群書類従」のほうは、残念ながらKindle版は無いようだ。

 

でも国会図書館のデジタルコレクションなら、iPhoneからでも参照できるはず。

 

ちなみに、「安土御献立」は「続群書類従 (武家部・巻663)」に載っているらしい……

 

そこまで分かったら、探さずに諦めるという選択肢はない。

 

で、iPhoneでひたすらページをめくって発見したのだけど、この御献立、量がおかしい。

 

「なすのしぎ焼き」と推定される料理が出てくる「拾五日 をちつき」の献立だけ、書き写してみる。

 

天正十年安土御献立

 

於安土上様。 三河守殿。 御申献立。

 

拾五日 をちつき。

 

       本膳。

かわたてきん

たこ。       たいのやき物。   な汁。

 

      なます。

        

かわたて     かわたて

かうの物。    ふなのすし。 御めし。

 

       二膳。

をけきんゑをかきて     かわたて   

うるか。         うちまる。  ほやひや汁

 

       ふとに。

わをきんにゑをかきて    かわたて

かいあわひ。        はむ。  

 こいの汁。

 

       三膳。

         やまのいも

やきとり。     つるしる。

 

きそく金銀繪有

かさめ。

 

わきんきんきそく繪有

にし。      すすき汁。

 

       よ膳。 

かわたて

まきするめ。  

 

いろへ

しきつほ。     ふな汁。

かわたて

しゐたけ。

 

       五膳。

まなかつうを。さしミ

       かはらけ入こはう

しやうかす。    かも汁。

 

けつりこふ。

 

   御くハし。  ふちたか足をつけて

やうひもち。     まめあめ。

ミのかき。

はなにこふ。 から花。

 

 

「をちつき」(おちつき)というのは、宿に到着して最初に食べる料理のことだという。

 

本膳からはじまって、二膳、三膳、四膳、五膳、お菓子と、フルコースのような献立になっている。

 

汁物だけで、七種類。(菜汁・ほや冷汁・鯉の汁・鶴汁・鱸汁・鮒汁・鴨汁)

 

人間の胃袋のキャパシティを超えている。

本膳料理、恐るべし。

 

量だけでなく、デコレーションもすごい。

 

「をけきん」というのは、食器の下の台を金銀で塗り、絵を描いたものらしい。 

 

何度も出てくる「かわたて」は、料理の下に敷いた金箔のことだとか。

 

「きそく(亀足)」は料理に刺した串で、これも金銀で装飾されていたようだ。

 

落ち着くための「をちつき」のはずなのに、これじゃギラギラしすぎて落ち着けない。

 

安土城に着いて、いきなりこれを出された家康は、さぞ胃に負担を感じたことだろう。

 

忘れていたけど、四膳(よ膳)のところに出てくる「しきつほ」というのが、なす料理だったらしい。なすを壺のようにくり抜いた中に、鴨肉を詰めたものなのだとか。

 

家康、無事に四の膳までたどり着けたのだろうか…。

 

ちなみに家康は、同日の夜にもう一食「晩御膳」を出されている。そちらもなかなかのボリュームだったようだ。

 

深夜にトイレと仲良くしている家康が幻視できそうな気がしてくる。

 

このときの家康のおもてなし役は、明智光秀だったという。料理のプロデュースも光秀だったのだろう。

 

信長は、なぜか光秀を叱り飛ばしておもてなし役から外し、毛利征伐をしている秀吉を支援するように言い渡す。

 

けれどと光秀は命令に従わず、本能寺の変を起こしてしまう。

 

料理のせいで、信長と光秀が決裂したのだとしたら、理由は光秀の「やりすぎ」だったかもしれない。

 

本膳料理というのは、室町幕府の将軍を招いてもてなす「御成」という場で振る舞われるものだったという。

 

信長から見て、配下とも言える立場の家康に対して、光秀が、将軍を迎えるレベルの料理を用意したから、信長がキレたという説もあるという。

 

その他、実は信長が光秀に家康暗殺を命じていたという説もあるようだけど、どうなのか。

 

ドラマでも、このときのエピソードはきっと出てくると思う。

 

タイトルはやっぱり「どうする安土城」だろうか。「どうする本能寺」というのも、ありかもしれない。

 

「どうする本膳料理」ってことは、さすがにないか。