湯飲みの横に防水機能のない日記

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和歌メモ…藤の花(後撰和歌集・よみびとしらず)

今回の藤の花は、後撰和歌集のよみびとしらずの歌。

 

後撰和歌集は、村上天皇の命で編纂され、958年ごろまでに成立したとされる勅撰和歌集

 

編者は、源順、清原元輔清少納言の父)など、「梨壺の五人」と言われる人々が中心となっていたという。

 

(「ねこたま意訳」は逐語訳ではなく、若干妄想入りの現代風解釈です。本来の内容から甚だしく逸脱しないように、一応注意していますが、従来の一般的な解釈とはだいぶ違っている場合が多いので、ご注意ください)

 

水そこの色さへふかき松がえに千年をかねて咲ける藤浪

 

(みなそこの いろさえふかき まつがえに ちとせをかけて さけるふじなみ)

 

後撰和歌集 124  よみびとしらず

 

 

*水そこ(みなそこ)…水底

*松がえ…松の枝

*かねて…あらかじめ、前もって

*藤波…藤の花房が風に揺れる様子を波に見立てている語

 

ねこたま意訳】

 

広々と澄み渡る池の水底に、威厳に満ちた松の古木が、深い色の影を落としている。

 

その松の枝に、見事な藤の花房があふれんばかりに咲き誇り、波のように揺れている。

 

いつまでも見ていたい、ずっとここにあってほしい、夢のような庭園。

 

でも永遠に続くものなんて、きっと存在しないのだろう。

 

花は散るし、古木もやがて枯れていく。

世の中だって変わっていくし、人も家も、生まれては消えていくものだから。

 

それでも祈りたい。

いつまでも、この幸せが続くことを。

大切な人々が、ずっと幸福であることを。

 

……

 

「よみびとしらず」の歌なので、詠まれた状況は不明。

 

けれども、いくつかのキーワードから、うっすらと推測できることがある。

 

まず「松」。

常緑樹であるためか、繁栄や長寿の象徴とされ、魔を払う清浄さをも持つとされていたらしく、平安時代には、贈り物を松の枝につけることがよく行われていたという。

 

次に「藤波」。

花房が揺れる様子を波に見立てることができるほどなのだから、数えきれないほどの藤の花が、松の枝から下がってよほどの巨木であるのかもしれない。

 

そして「水そこ(みなそこ)」。

たくさんの藤の花のからんだ松の木は、水辺にあるらしい。

 

湖のほとりに自生しているのか。

 

それとも庭園に人工的に作られた池のほとりに植えられたものなのか。

 

どちらの可能性もあって、結論は出ないけれども、海原を思わせる「藤波」という言葉から、数多くの花房が風に揺れている光景であることがうかがえる。ほんの数本の藤の花房を「藤波」とは言わないだろうから。

 

天然のものでなく、個人の庭園に咲く藤波であゆとするなら、松の木も藤も、よほどの大樹であるのだろう。

 

また、「千年をかねて」と、藤の花が未来の繁栄を予見しているかのように歌っていることから、特定の誰か、もしくは一族、国などが、末永く盤石であることを願う目的で詠まれた可能性はあると思う。

 

名前を記すことのできない誰かが、見事な藤浪の情景に寄せて、大切に思う何かを祝福し、千年のちまで栄えることを願い、祈る歌。

 

上の「よみびとしらず」の藤波の歌は、そのような性質の歌だと思う。

 

(_ _).。o○

 

ところで、後撰和歌集のこの歌のあとに続いて、明確に「藤原氏」の繁栄を賛美していると考えられる藤の花の歌が二首収録されている。

 

 

やよひの下(しも)の十日ばかりに、三条右大臣、兼輔朝臣の家にまかり渡りて侍りけるに、藤の花さけるやり水のほとりにて、かれこれ大みきたうべけるついでに

 

三条右大臣(定方)

 

かぎりなき名におふふぢの花なればそこひもしらぬ色の深さか

 

(かぎりなき なにおうふじの はななれば そこいもしらぬ いろのふかさか

 

 

後撰和歌集 125

*遣り水…庭に作った小川

*大みき…酒

*たうぶ…いただく(「飲む」「食ふ」の謙譲語

*かぎりなし…際限がない、はなはだしい、最高だ

*そこひ…奥底、極み。

*名におふ…名前として持っている

 

【怪しいねこたま意訳】

 

三月下旬に、右大臣の藤原定方が、従兄弟の藤原兼輔朝臣の家へ行き、藤の花が咲く遣り水のほとりで、いろいろな顔ぶれと一緒にお酒をいただいていた時に詠んだ歌。

 

……

 

栄華を極めた我が藤原の一族。

その「藤」を名に持つ花だから、これほどまでに深く、高貴な色なのであろうか……

 

なーんちゃって!

マジメにナレーションしちゃったよーん!

 

君は藤原、僕も藤原。

藤原北家嫡流じゃなくたって、傍流だって、藤原は藤原だもんねー

 

うちの娘が帝のヨメになったから、怖いものなし!

 

外戚パワーで一気に右大臣までレベルアップしちゃったぜえ!

 

え?

藤の花の紫は薄紫だから、そんなに色が濃くないって?

 

深いのは陰謀の闇だって、みんな言ってる?

 

あーまーねーそりゃねー

いろいろあったもんねー

 

菅原さんちの道実さんを濡れ衣で罠にかけて太宰府に流しちゃったりとかねー

 

アレやったのも藤原さんだけど、うちの藤原じゃないし、兼輔くんとこでもないから。

 

うちらはクリーンなの。

傍系でも、キレイで濃ゆーい藤原なの! 

深くても、ダークじゃないの!

 

ダークな方の藤原さんたちは、道真さんに祟られてさっさとおっ死ん…げほごほごほごほ……

 

急にむせちゃったよ

ねえ、いま誰か僕の首絞めた?

んなわけないか。

酒が足りないせいだねきっと!

 

兼輔くーん、お酒おかわり!

 

 

兼輔朝臣

 

色ふかく匂ひし事は藤なみの立ちもかえらで君とまれとか

 

(いろふかく においしことは ふじなみの たちもかえらで きみとまれとか)

 

後撰和歌集 126

 

【もはや意訳ではないねこたま意訳】

 

うわっ

酒くさっ

お義父さんてば、飲み過ぎだって。

 

え?

死んじゃった藤原嫡流の方々に首しめられるから酒寄越せ?

 

もう意味わかんないっすよ。

 

あーあ、ふらふらしてるし、こんなんじゃ帰りが心配だから、今日はもう、うちに泊まってって下さいよ。

 

 

作者の藤原定方(三条右大臣)は、訪問先の藤原兼輔と共に、若い頃から醍醐天皇に使えていた。

 

その縁で交流が生まれたのか、兼輔は定方の娘と結婚し、義父となった定方の庇護を得て出世したという。

 

 

ちなみに定方の娘の藤原能子(よしこ)は、醍醐天皇の女御となったものの、残念ながら寵愛は薄かったようで、子どももなく、醍醐天皇崩御後には別の男性と恋愛したり、結婚したりしたようだ。

 

ちょっと脱線したけど、

 

「藤の花」=「藤原氏(の繁栄)」

 

であることが明らかな、藤原定方藤原兼輔の歌の直前に収録されていることから、最初の「よみびとしらず」の藤波の歌も、それらの類歌のように見えてくる。

 

編者は、そういう風に受け止められることを狙って、三首を並べて配置したのかもしれない。

 

 

歌集のなかで「よみびとしらず」とされる歌は、本当に作者が分からない場合もあるけれど、名前を書きにくい、何らかの背後事情がある場合もあるという。

 

たとえば、勅撰和歌集に名前を出せないほど、身分の低い詠み手だったり。

 

あるいは、朝廷への反逆者や、罪人だったり…。

 

後撰和歌集」が編纂される数年前に、平将門藤原純友が乱を起こしている。(939〜941年)

 

藤原純友は、定方や兼輔と同じように、藤原北家傍流の出身だったけれども、父親に早く死なれたために中央での出世の見込みがなく、地方で海賊取締りの仕事をしているうちに、自分が海賊になってしまったのだという。

 

純友については、「大鏡」に次のような記事がある。

 

この純友は、将門おなじ心にかたらひて、おそろしき事企てたる者なり。将門は、「みかどを打ちとり奉らむ」と言ひ、純友は「関白にならむ」と、同じく心をあはせて、この世界にわれと政をし、君となりてすぎむ、といふ事を契りあはせて(後略)

 

大鏡」(角川ソフィア文庫

 

 

(↑Kindle Unlimitedで利用できます)

 

【超てきとーなねこたま意訳】

 

この純友という人物は、将門と共謀してとんでもないことを企てた者である。

 

将門は、

 

「俺、天皇滅ぼして天皇になるわ。桓武天皇の子孫なんだから、資格あるよな」

 

と言い、純友は、

 

「じゃ、俺は関白だな。一応藤原北家だし」

 

と、一致団結して国を乗っ取り、自分たちで政治をやろうと約束し……

 

……

 

謀反を起こした悪人として、後世に名を残した彼らだけれど、都で暮らす貴族たちには見えていない地方の実情を踏まえて、彼らなりの夢や理想を抱いて、権力を求めるようになったのかもしれない。

 

純友が本当に都を制圧して関白になるつもりだったかどうかは分からないけれども、藤原北家という名家の血筋であることに誇りを持って、海賊団を率いていたのかもしれない。また、高貴な血筋であることが、反乱軍の求心力になっていた可能性もある。

 

純友が和歌を詠むような雅な人物だったかどうかは分からないけど、海賊船の上から光輝く海原を眺めながら、自分の名が知れ渡り、子孫も栄えて千年後までも名声を馳せる夢を思い描くと

 

略奪で暴れまわり、太宰府まで陥落させた純友は、そんな優しいロマンチストではなかったかもしれないけれども、何らかの「大人の事情」で勅撰和歌集に名前を表に出さないような、不遇な「藤原さん」のなかには、もしかしたら、そういう人がいたかもしれない。

 

そんな「藤原さん」の見た「藤波」は、大自然の中で自生し、寄りかかる松の木すら圧倒して猛々しく生え広がる、野生の藤の大樹だったかもしれない。