湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

大河ドラマ「どうする家康」(6)続・瀬名奪還作戦

 

NHK大河ドラマ「どうする家康」第6回「続・瀬名奪還作戦」を、昨日やっと見た。

 

 

家康の最初の妻である築山殿(瀬名)と子どもたちが無事に生き延びたという歴史的事実は知ってはいても、どうしてもハラハラしてしまう。

 

関口氏純と妻の巴は、どんな形で愛娘の瀬名や孫たちと引き裂かれ、処刑されるのか。

 

家康の離反後、すっかり狂乱の貴公子と化している今川氏真が、さらに酷い仕打ちに出たりしないだろうか…。

 

そのあたり、相当な鬱展開になるのを覚悟していたのだけど、意外と言うかなんというか、ある意味とても爽やか(?)な永訣だったように思う。

 

(_ _).。o○

 

 

前回、本多正信松山ケンイチ)と服部半蔵山田孝之)が決行した奪還作戦が失敗し、癖の強い服部党の手練れの忍者たちが全滅。

 

けれども本多正信は諦めず、上ノ郷城に忍びこんで、今川家に忠義の厚い鵜殿長照と、その息子二人を拉致して、瀬名たちと人質交換する作戦を提案し、服部党なら必ずやり遂げると断言する。

 

忍びが大嫌いなのに、忍びの代表を務めている服部半蔵は、家康に「できるのか?」と聞かれて、

 

「俺らは、できるかできねえかでは考えません。やれと言われたことを、やるのみ」

 

と答える。インチキくさい本多正信を嫌っていたはずの石川数正も、陰気だけど真摯な半蔵の態度を見て、

 

「わずかにでも望みがあるのなら、やりましょうぞ」

 

と参戦に賛成。酒井忠次も無言で同意。

 

バラバラだった徳川勢が一つにまとまったような、いい感じの場面だったのに、次のシーンで、あっさり裏切る松ケン本多正信

 

服部党ならやり遂げると断言したくせに、彼らの生き残りたちの腕を全く信じていなかった正信は、甲賀衆をも招集していて、あっさりそちらを優先するという、イカサマ師っぷりを見せつける。

 

 

 

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元康の離反を許しがたく思っていた今川氏真溝端淳平)は、奪還作戦に応じようとした瀬名たちの裏切りで、完全にブチ切れていた。

 

いよいよ上ノ郷城が落ちると、瀬名だけでなく、両親と子どもたちをも家康の目の前で処刑することを決める。

 

それも、ただ殺すのではなく、先に幼な子たちを惨殺する様を瀬名に見せつけると宣言。それも、子どもに親の死を見せるのはかわいそうだからなどという、サイコパスみたいな理由で。

 

鵜殿長照の息子二人との人質交換のために、石川数正が使者として参上すると、完全に激昂し、岡部元信に命じて数正の首まで取ろうとする。

 

けれどもそこで、瀬名の母親である巴が、氏真の人格の未熟さを一喝して正気に戻すという、偉大なる胆力を発揮して、無事に人質交換が行われることになる。

 

ただし、交換されるのは瀬名と二人の子どもたちのみ。関口夫妻は、これまで尽くしてきた今川家の再興を願いながら、氏真の面目を保つためにと、自ら処刑されることを望むという、究極の忠義を見せて、氏真の拗れた心を動かした。

 

父義元の死後、人を信じられなくなっていた氏真にとって、それはあまりにも痛く苦い薬だったかもしれない。

 

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ちょっと時系列の整理と、人物の復習。

 

1560年…桶狭間の戦い今川義元が討たれる。松平元康、岡崎城に帰還。

 

1558年〜1561年…石ケ瀬川の戦い(松平元康と、叔父の水野信元の衝突)

 

1561年…元康が、援軍を送ってくれない今川から離反して、水野信元(寺島進)の仲介で、信長と清州同盟を結ぶ。

 

1562年…元康と信長、会談。

1562年…伊賀衆、甲賀衆の奇襲で上ノ郷城を落とし、人質交換で妻子を今川から取り戻す。

 

1563年…元康、家康に改名。

 

ドラマでは、家康の実母の於大(松嶋菜々子)が、上ノ郷城を自分の再婚相手の久松俊勝(長家・リリー・フランキー)に与えるようにおねだりしていたけど、Wikipediaの記事によると俊勝は、於大との間に生まれた息子の康元を城主としたらしい。

 

上ノ郷城攻めの準備をする台所で、於大はすっかり岡崎城の女性陣のトップみたいな振る舞いをしていたけど、城主の実母であっても、立場的には家臣の妻なので、家康の正妻の瀬名が岡崎城に入って同居したら、いろいろ微妙な関係になりそうな気がする。

 

それに、於大の兄の水野信元は、早い時期に尾張織田氏に寝返っていたために、家康や家臣たちに良く思われていなかった。そんな信元や於大が岡崎で大きな顔をして、於大の夫に城まで与えられるとなると、ずっと家康のそばにいた家臣たちにしてみれば、面白くないのじゃなかろうか。

 

そして、Wikipediaの築山殿(瀬名)のページを見ると、駿府から奪還された瀬名は、なぜか岡崎城には入らず、城外で暮らしたと書いてある。ドラマでは家康の家臣たちに敬愛されていたけれど、敵対している今川家家臣だった関口氏の娘ということで、何が面倒くさいことがあったのだろうか。

 

瀬名が岡崎城に入るのは、息子の竹千代(信康)が嫡男として岡崎城入りした1570年のことだという。

 

でも同じ1570年に、家康は岡崎を出て、浜松城を本城としてそこに移ってしまう。ということは、家康と瀬名は、桶狭間の戦い以降、同居していないことになる。

 

家康には十数人もの子どもがいるのに、最初に結婚した瀬名との間には、信康と亀姫の二人しか子どもがいない。岡崎入りした時には離縁されていたという説もあるようだ。

 

家康と瀬名の夫婦関係、謎が深い。

 

 

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毎度蛇足の歴メシネタだけど……

 

今回は、ひたすら握り飯が出てきただけだった。

 

家康好みだという、麦の入ったらしき握り飯。

 

大きくて、美味しそうだけど、徳川勢の兵糧は、どうも変化に乏しい気がする。もうちょっとこう、何がないものか。(´・ω・`)

 

「一般社団法人おにぎり協会」という団体のホームページに、おにぎりの歴史をまとめた年表があって、それによると、応仁の乱あたりから1590年あたりまでの握り飯事情は、次のようなものだったようだ。

 

おにぎりは兵糧として特に重宝される。間引き菜をコメと一緒に炊いた菜飯おにぎりが主流。豊臣秀吉が天下統一後、赤米や黒米に比べ収量の多い白米が広まる。

 

おにぎりの歴史 | 一般社団法人おにぎり協会 Onigiri Society

 

ドラマの中の岡崎城では、菜飯おにぎりは見当たらないようだった。

 

野菜も食べようよ…。

 

 

これまでのあらすじ | 大河ドラマ「どうする家康」 - NHK