だいぶ遅くなったけど、NHK大河ドラマ「どうする家康」第11回「信玄との密約」を見た。
1568年、織田信長が上洛を開始し、足利義昭を第15代将軍に擁立。
同年、武田信玄は駿河侵攻を開始。事前に今川の重臣たちを調略していたため、ほとんど戦闘することもなく、駿府はあっけなく制圧されてしまう。
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家康と信玄の関係といえば、三方ヶ原の戦い(1573年)で、家康が信玄にボコボコにやられて滅びかけたことぐらいしか知らなかった。
なんでそこだけ知っていたかというと、「信長協奏曲」(石井あゆみ著)に、三方ヶ原の戦いが出て来たから(8〜9巻)。
久々に読み返してみた。
武田軍が三河に迫ってきた時、信長から援軍3000と遺書みたいな書簡を貰った家康が、感動のあまり籠城をせずに撃って出ることを決意。
ところが、武田軍は家康のいる浜松城を素通りして、高台である三方ヶ原に進軍。
三方ヶ原を降る武田軍を上から有利に攻めようとした家康だけれども、徳川軍の動きを読んで待ち構えていた信玄に全く歯が立たず、たった2時間で敗走。
死を覚悟して殿軍(しんがり)を引き受けた本多忠勝と、浜松市に撤退する榊原康政が、
康政「安心して死ね。地獄で鬼と揉めるなよ」
忠勝「さっさと浜松城に戻り、首を洗って待っておれ! わしがお主を地獄へ送ってやるわ!」
などと、減らず口合戦をしているのが印象的で楽しかった。
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今回のドラマは、その三方ヶ原の戦いの5年ほど前のお話ということになる。
信長の仲介で、武田信玄と会談することになった家康は、いつものようにビビりながら信玄の訪れを待っていたものの、家臣だけで信玄本人が来ないと知り、自分が格下扱いされたことに腹を立てて会見の場に出る事を拒否。
本田忠勝や榊原康政と一緒に外に出て、信玄の悪口を言い合っているところに、信玄本人がお茶と団子を持って登場。
気さくに話しかけてくる信玄だけど、自分への悪口をしっかり聞いていたことを仄めかしつつ、家康たちに有無を言わせず、足並みそろえて駿河侵攻することを受諾させてしまう。
家康に格の違いを見せつけた信玄だけれども、わざわざ家康と身体をくっつけて座ってみたり、串団子を手ずから家康に齧らせて、残りを自分が食べてみたりと、なんだかスキンシップが過剰だった。
武田信玄は1521年生まれだというから、駿河侵攻の時には52歳くらいだったことになる。
息子世代の家康(1543年生まれ)をビビらせてからかうのが面白かったのかもしれないけれども、お気に入りの若者を構って楽しんでいる風でもあった。
信長といい、信玄といい、このドラマの家康は、桁違いに恐ろしく癖の強い強者に愛玩されやすいキャラとして描かれている感じがある。
反面、女性にはあまりモテない感じなのは、気のせいだろうか。
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引間城を守っていたお田鶴(飯尾連龍の妻)は、幼馴染の瀬名による和睦の願いを拒否。城に火を放って討死してしまう。
お田鶴は、家康に滅ぼされた鵜殿長照の妹であり、今川氏真のいとこでもあったので、家康方につくことは、どうしても心情的に難しかったのだろうか。
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毎度お約束の歴メシネタコーナー。
今回気になったのは、武田と徳川との会見の場で出されていた、謎の茶菓子。
石川数正が鬼の形相で山県昌景を睨みながら、手づかみで口に運んでいた黒くて丸いものは、なんだったのだろう。
色的には羊羹っぽいのだけど、球形の羊羹は作りにくそう。
おはぎにしてはサイズが小さいし、指にベタつく感じもなく、固そうに見える。
八丁味噌っぽい色でもあったけど、さすがにお茶菓子に焼き味噌はないと思う。
室町時代のお菓子を探してみたら、「砂糖饅頭」なるものが見つかったので、古事類苑データベースで検索したら、南北朝時代の書物「異制庭訓往来」に、記述があった。
點心者可爲水煎、糟雞、籤羹、鼈羹、驢腸羹、水晶包子、駱駝蹄、砂糖饅頭、乳餅、白魚羹、餛飩、卷餅、素麵、打麵、冷麵、竹葉麵
冒頭の「點心者可爲水煎」をGoogleさんに翻訳してもらったら、「デザートはボイルできます」とのこと。
「水煎」=「ゆでる」なんだろうか。
でも、饅頭や羊羹を「ゆでる」というのは、半端なく違和感がある。
「水煎」で検索してみたら、台湾料理「水煎包」もいうのが出て来たので、レシピを見てみたら、蒸し上げてつくる饅頭だった。
うん、やっぱり饅頭は蒸さないと。
茶菓子の正体が砂糖饅頭だったかどうかは分からないけど、室町時代には、茶道とともに砂糖を使ったお菓子が普及したらしいので、家康たちも甘いおやつを食べていたかもしれない。