こんにちは。
この数日で、大河ドラマ「どうする家康」を九カ月分、一気に見た。
1569年に今川氏真との戦いに勝ったところから、1615年の大阪夏の陣の開始直前まで。
戦国大名で悲惨な人生を歩んでいない人なんて、ほとんどいないのだろうけど、その中でも、徳川家康の歩んできた道のりは、まともな人間なら、耐えられずに心を壊したとしても不思議のないものだったと思われた。
幼少期からの人質生活で、肉親の愛など知らずに育ち、養父のような存在でもあった今川義元を桶狭間で失ってからは、暴君織田信長に振り回されながら、内乱や一向一揆を制圧し、朝倉、浅井を攻め滅ぼし、武田にボロカスにやられて忠臣を失い、最愛の妻と嫡男を外圧から守りきれずに自害で失い……
普通の人間なら、早々と壊れていたと思う。
正妻の築山殿と、嫡男の信康の死については、いまもはっきりした事情が分からないのだという。
築山殿は共にろくでもない性格で、武田と内通し、唐人の医者と密通したなどと言われているけれども、実のところ、確かな証拠はなく、冤罪の可能性もあるのだとか。
信康については、嗜虐的で、遊び半分に人を殺したという逸話があるそうだけど、真偽は不明。
ドラマでは、瀬名(築山殿)が、戦乱で心が壊れかけていた信康を守るために、武田の忍びである巫女の千代を介して、武田側と不戦の約束を結んでいた。
瀬名は、大名が争わずに支え合うことで、貧しさから民を救い、それぞれの産業や商業を活発にして富ませようという思想を抱いて、支持者を築山に集め、信長の目の届かないところで平和な社会を実現しようとしていた。
その策略は、途中までは上手く行っていた。
けれども、武田勝頼が平和な関係性に耐えきれずに脱落したため、織田に事情が漏れてしまい、家康は瀬名と信康を処刑せずには済まされない状況に追い込まれてしまう。
家康は替え玉を用意し、瀬名たちを逃がそうとしたけれども、瀬名も信康も逃げることに同意せず、徳川家を守るために自害してしまう。
ドラマのシナリオはフィクションだけれども、もしかしたら、それに近いことがあったのかもしれない。
築山殿と信康の悪行が、確たる証拠もないらしいのに、やたら誇張されて後世に書き残されているのは、二人の殺害(自害)を正当化する必要が、江戸時代に入ってからの徳川政権内にあったからかもしれない。
たとえば、二人が実は死んでおらず、本当に替え玉作戦で逃がされて、どこかで別人としての人生を与えられたのだとしたら。
あるいは、武田との内通事件が、実は家康主導のもので、それを隠蔽するために、ドラマと同じように二人が率先して泥を被ることになったのだとしたら。
などと想像を膨らませることで、ドラマの瀬名・信康自害の悲しさを乗り超えても、その先には、まだまだ悲しい永遠の別れがどっさり待ち構えているわけで……
家康、大変だったんだなあと、心からねぎらいたくなった。