今日もせっせと2001年の育児日記を読みなおしながら、ここに転載している。
21年前の私は、とにかく精神的にタフだった。
身体はヨレヨレ、ボロボロなのに、朝から晩まで子どものために奔走していた。
それは本当に倒れて死にかけるまで続き、九死に一生を得て復帰したあとは、また同じように、ひたすら走り回りつづけた。
早朝、息子を通園施設に送り届けてから、買い物に行き、午後に施設に迎えにいって、その足で療育に向かう。当然、家事もこなす。長女さんもまだ幼く、難病のための通院もあり、再発で入院することもあった。ほとんど毎日、いくつもの外出の掛け持ちだった。
いまの私には絶対に無理なスケジュールだ。
こんな暮らしは、6年前に息子が特別支援学校の高等部を卒業した翌年まで続いた。
途切れたのは、末っ子の出産の時ぐらいだろうか。さすがに産前産後は療育をお休みしたけれど、息子の学校への送り迎えは、出産直前まで続けたし、産後もすぐに再開したように記憶している。
息子が通っていた未就学児の障害児のための通園施設とは、極めて折り合いが悪かった。
そこの施設は、なぜか障害児の療育を全否定していて、息子を療育教室に通わせている私は、施設に行くたびに、担任の先生や施設長に、ねちねちといじめられた。
最初のころは、自分がいやがらせを受けているとは分からず、「なぜこの人たちは、意味の分からないことを言うのだろう」と不思議に思っていた。そのうち、あからさまに不快な態度を見せるようになってきたので、鈍い私もさすがに気がついて、腹を立てるようになってきた。
読み返していて、このときの担任の保育士の表情や声色まで思い出した。
あの人は、障害児の母親に、しょうもないいやがらせを繰り返す毎日に、満足していたのだろうか。
延々といやがらせを続ける施設職員に、私はバカ正直に面談を申し込んで、話し合いの場をもってもらった。結果、ますます態度が悪くなっただけだった。
私にいじわるするだけならまだしも、息子に害のある行動も増えていった。
いま思うと、保育士としてアウトな行動だ。
古い日記の私は、いまの私よりもだいぶトゲトゲしい。ちょっと好戦的でもある。若かったということだろう。ちょっと恥ずかしい。
長女さんと息子が幼児だったころは、ほとんど毎日、「事件」があった。
この日の「鮮血」の色と母親としての自責の念は、いまもよく覚えている。それくらいショックだった。
子どもたちは欠かさず毎日お風呂に入れていたし、着替えにも気を付けていたから、やはりステロイドの影響だったのだろうと思うけれども、母親なら誰だって「もっと気を付けていれば」と思うところだろう。
運転に自信が持てずにタクシーで病院まで走ったところまでは記憶していなかったけれども、私ならそうしただろうと思うし、いまでもそうする。
上の日記で書いていた「子供たちはみんな、自分で人生を守れるように育てていかなければならない。」という思いは、いまも変わっていない。長女さんも息子もすでに成人しているけれど、そういう意味では、私の「育児」はまだ続いているともいえる。
上の日記は、息子の通園施設の父親参観で、亭主が園に喧嘩を売ったことが書いてある。すっかり忘れていたけど、そういうこともあった。
なんだかんだで、30本近く転載したので、ちょっとお休みする。
これから自分の通院。