湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

つまらないこと

施設との対話の経緯は、やはり相当神経にこたえたらしい。丸一日、胃の調子が悪くてしかたがなかった。体全体の調子もよくない。

 

息子(3歳・重度自閉症)の相手をしないときには、とにかく体を横にして休むようにしている。

 

今の施設に息子を通わせずに、家庭で療育していたなら、と考えてみる。

 

もちろん今と同じように、いくつかの専門機関の力は借りるとしても、自信を持って療育のメインの場を家庭に設定することが出来ていたら、ハラハラしながら考えの違う人たちに我が子を預けて、つまらない軋轢でこれほど苦しむ必要はないだろう。

 

でもそれが息子にとって一番いいのかどうか、確証は持てない。

 

あらためて考えてみる。

今通っている施設は、息子に、そして私たち家族とって、どんな利点を与えてくれているだろう。

 

・所属する場所。「いてもいい」と保証された居場所。幼稚園や保育所と違って、全員がまぎれもない障害児だから、息子一人が「お荷物」になることはない。職員の方々も、十分に覚悟をきめて職務にあたっておられるから、どこかの幼稚園のように、「障害児を引きうけたせいで問題が起きた」などといわれて親が責められることは決してない。

 

・障害児が遊びやすい遊具をそろえた園庭と、体育館。安全な教室。そして家庭ではとても購入できないような、大型で大量の玩具類。トランポリンや、天井からつるされたハンモッグが、息子は大好きだ。はじめて施設見学をしたとき、通っている子供たちの重い障害の様子を見て気が重くなったけれど、「この設備は使える」ということも、強く感じた。児童公園にはない、障害児のためによく考えられた遊具を使わせてもらって、息子の感覚統合を最大限鍛えることができたなら、ずいぶん予後はよくなるのではないかと思えたからだ。その思いはいまもほとんど変わらない。

 

・充実した保育環境。複数の先生が息子のクラスに配置され、母親の通園が義務付けられていない日には、午前10時から午後2時まで、保育をすべて引きうけてくれる。食事も、オムツの交換も、先生がすべてやる。偏食を治す工夫までしてくれる。子供十人につき、先生は2~3人。幼稚園の先生がたった一人で30人もの子供を見ていることを思えば、めぐまれていると言わざるを得ない。私たちが不満を持っている、施設での生活のカリキュラムも、療育の素人の先生方としては、本当によく努力してやってくれているとも言える。

 

・一緒に過ごす、同年齢の子供たち。家にいれば、息子の遊び相手は長女さん(5歳)一人である。公園にでかけても、健常な子供たちと遊んでもらうことは望めない。

 

こうして利点をならべていると、施設の先生方に苦情を言う親のほうが「悪いことをしている」ような気がしてきてしまう。他の親御さんたちも、そういう気持ちで、施設とうまくつきあってきておられるのだろうと思う。

 

けれど、ここの施設に通っていたのでは、息子の自閉は改善されない。
それだけは、どうしようもない事実として残ってしまう。

 

毎日、施設から帰るたびに、息子は、全く視線の合わない「自閉の子供」に戻ってしまっている。表情も乏しくなる。施設に行った日は、三十分から一時間ほど抱きしめて呼びかけて、家族の目を見ることのできる視線を取り戻さなくてはならない。朝出ていた言葉も、指差しも、消えてしまって帰ってくる。施設では言葉を話したり、指差ししたりする必要がないからだ。

 

施設は息子の状態を改善するために動いてはくれない。
自閉症は治らないというのが、施設の考え方だからだ。
世間の人から愛されやすいような、しつけのいい障害児を作ることが、施設の目的なのだ。

でも私たちは、息子がいまよりも改善すると考えている。
ちょっと変わった大人になるかもしれないけれど、自分の力で人生を選び取れる本物の大人になれることを願っている。


息子自身が、人生や友人や家族を愛して生きていけるようにしてやりたい。

 

施設が「悪」で、私たちが「善」というわけではない。ただもう、どうしようもなく、出発点も到達点も違いすぎるのだ。障害のある子を持ってしまった親には抜き差しならない痛みがある。その痛みを力に変えて、人生を賭けて子どもの状態を良くしようと決意することもできる。

 

けれども施設の先生方は、違う。

 

息子が施設に入園した日、先生の一人がいった。

 

「お母さんたちは、自分の子供がきちんとやれないのを見ても、あんまり気にしないでくださいよ。ほら、見てください。三年通った子たちでも、この程度なんですから」

 

この先生(男)は、結婚九年目にして待望の赤ちゃんをようやくさずかったという人である。


その赤ちゃんが自閉症だったなら、と私は思った。そうしたらこの先生は、施設の子供たちのことを、そんなふうに言えるだろうか。それとも福祉の人というのは、たとえ我が子が障害児でも、にこにこしながら「この程度なんですから」と言えるものなのだろうか。

 

(2001年7月21日)

※過去日記を転載しています。

 

 

dakkimaru.hatenablog.com