湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

げんなり

昨日、息子(3歳・重度自閉症)の通園施設の担任と亭主との「対話」があった。
お誘いを受けなかった私も、敢えて後から施設に出かけ、途中から話を聞くことができた。

 

亭主はまず、「施設外で療育をしている親を中傷し、圧力をかける先生がいるので、絶対にやめてもらいたい」と申し入れたそうだ。

 

すると担任は、「そんなことは決してありません」と答えたので、亭主はさらに、中傷があったのは事実だが、息子のクラスの中ではないことと、そのことで深く傷ついている親がいるということを、重ねて担任に伝え、二度とそういうことの起こらないようお願いした。その上で、

 

「ここの施設は子供を療育することを目的としているのであり、外で独自の療育を受けさせることについて否定する権利も意志もないはずですよね」

 

ということを、担任に確認した。担任は、そうだと答えた。

次に亭主は、親としては我が子の自閉症を少しでも改善させたいのであって、現状をありのままに受け入れ続けて、そのまま大人にする気はさらさらないのだということを伝えた。

 

けれども担任は、亭主の話の意味がすぐには了解できなかったらしい。無理もない。息子の施設の先生方の大半は、「自閉症の症状が改善する」などと考えたこともない人たちなのだ。

 

私が施設についたとき、療育について、亭主と担任がちょうど押し問答に近いやりとりをしているところだった。

 

言語というものは、子供の心身の総合的な発達とともに培われていくものである、というのが、通園施設全体の持論のようだった。それ自体には異論はない。

 

けれども、実際に行われているのは、形だけのおざなりな指導ばかりに見えるのだ。

 

手遊びや絵カード、歌などの時間、多動な子どもたちは、注目をうながされることもなく、椅子に座らせる努力もされずに、好き勝手に教室を走りまわるままに放置されている。着席している子どもたちも、見たものの名前を丁寧に教えてもらうことも、発語する機会を与えられることもない

 

施設に通っている子供たちの七割以上が、先生の指導する手遊びに全くついていけず、歌を歌える子は数えるほどもいない。先生方は、誰もついてこれないような模範演技を通り一遍みせただけで、子供が一緒にやろうがやるまいが、流して終ってしまう。

 

運動の時間になると、そういうものが苦手な子どもたちは、体育館のすみにぼーっと佇んだまま、誰にも誘われずに放置されている。こだわりが強くて症状の重い子ほど、放置の度合いは高い。あぶなくないように目配りはされているけれども、それだけだ。


私の見たところ、状態が改善している子どもたちは、親が家庭や他の療育機関で積極的に療育をほどこしている子どもたちだった。

 

けれども施設の先生方は、「外で療育している子は情緒不安定になりやすい」とか、「年中以上の子供たちは誰も外の療育に通っていない」とかいうことを、子どもを名指しにして、親たちの前で公言してはばからない。誰かがクラスメートをかじったという事件が起きると、その子の施設外での療育の強制が問題にされ、施設での指導の問題点は全く反省されることがない。

 

いろいろと話し合ったけれども、建設的な対話にはならなかった。

時間の無駄、という言葉が何度となく心をよぎった。

話し合いも、息子を通園させることも、無駄なのではないかと。

 

私が話し合いの場に着く前に、担任は、

 

「障害児が住みやすいように、親や我々の力で社会のほうを変えていかなくちゃならないですね」

 

と言ったという。また、

 

「障害のある子は、地域社会に愛される障害者に育てていくのが我々の義務だと思います」

 

とも言ったという。それに対して、亭主ははすかさず切り返した。

 

「奇声あげて暴れまわってるこの子たちを、どこの社会が丸ごと受け入れられますか。親の力で社会を変えることは不可能です。親はこの子たちを育てるので精一杯なんですから」

 

担任は、返事をしなかったという。

 

担任が口にしたという「地域社会に愛される障害者」という重いフレーズは、複雑な気持ちとともに、後々まで記憶に残るような気がした。

 

(2001年7月20日)

※過去日記を転載しています。