いま、朝の6時。台風が来ている。外はどしやぶり。
3時間ほど前に目が覚めてしまい、メールの読み書きをしていた。かなり大量に書いた気がする。受信する友人たちには申し訳ないのだが、おかげでアタマがちょっと整理できた。
いろいろあった。
たいしたことじゃないのだが、怒りを引き起こす種類のことなので、いまちょっと疲れている。
このところ、怒ると疲れる。なぜだろう。もうちょっと若いころなら、怒りが力になることのほうが多かったのだが、いまはなんとなく、その場に沈滞してしまう。
一つ前の日記で、「障害児はありのままが素晴らしい」という考えの人たちことについて書いた。
きのう、それと同種の人々と、3時間の長きにわたって、話し合う機会があった。
結果は、「話し合い」とは言い難い、惨憺たるものだった。
内容を、ここに書くのも億劫だが、それではワケがわからないので、少し書く。
話し合いの相手というのは、息子の施設の先生方である。施設はまだ休み中なのだが、対話の場を持ちたいと向こうから言われたので、家族で出かけていったのだった。
施設の先生方が私たちを呼び出そうと思った直接の理由は、亭主が施設宛てに書いた、療育に関する意見書を読んで、ムカついたからだったようだ。
意見書には、息子が、自閉症児としてどんな問題を抱えているかということと、それに対してどういう療育が有効であるかということを示し、無理のない範囲で施設側の協力を求めたいということが書かれていた。
また、我々親としては、息子を社会不適応な自閉症者として成人させるつもりは毛頭ないということ、療育によって、何らかの形で社会参加できるレベルまで成長させたい、そのためにも、コミュニケーション能力の向上は極めて重要だと思っている、ということも書かれていた。
「話し合い」の場で、先方はまず、次のようなことを宣言した。
提案でも状況の説明でもない、宣言である。
「当施設は、子供たちが言葉を話せるようになることよりも、愛される障害者になることを目指しています」
いきなり愛が出た。教育よりも愛。
では愛される障害者とはなにか。それは、
「あまり社会に迷惑をかけないこと」
なのだそうだ。
すばらしい、としか言いようがない。「愛」に関する、これほど分かりやすい定義を、いまだかつて私は自分の耳で聞いたことがない。おそらく彼らは恋人に向かって、
「愛されることとは、すなわちお金をたくさんもらうこと」
などと、普通なら言いにくいであろうことを、堂々と宣言できる人種なのだろう。
たんまりもらって生きてください、というほかはない。
つまり、私たちの息子は、彼らに「愛されて」いないのだ。
息子は自閉症児で、着替え一つにも介助がいり、オムツも取れず、混乱するとパニックを起こして暴れる、きわめて手のかかる幼児である。息子は、彼らに数々の「迷惑」をかけている。だから施設では、せいぜいもう少し「愛される」に足る程度の人間にしてやろうと思っているのに、意見書などよこして、やれ言語指導だの、認知能力の向上だのと、うるさいことを言ってくるのはお門違いだと思い知れ、ということのようだった。
「話し合い」の成り行きには、最初から全く明るい見こみなど存在しなかった。
重ねて厄介なことに、彼らは読解能力と聴解能力に難ありの人々であった。
「施設で出来る範囲のことで十分です」
と意見書に書き、口頭でお願いしても、彼らにはどういうわけか、
「息子のためだけに、すべての職員が全力で働いてほしい」
言われたと思い込んでしまうのだ。
「毎日数分見せていただいている絵カードのなかに、ほんの数枚でいいから、図形や文字を入れてほしい」
とお願いすると、これまたどういうわけか、
「早朝から帰宅時間まで、図形や文字のカードを見せる特訓をしてもらいたい」
と言ったのだと理解されてしまう。さらには、
「一日二回か、三回ぐらいでもいいから、息子の目を見て声をかけ、返事をさせてほしい」
と要望すると、
「一日中お宅のお子さんと向き合って、個別に特訓をしてもらいたい」
と言ったのだと思われてしまう。そして、
「そんなことは、当施設ではできませんので御理解ください」
という、一本調子のお答えのみが返ってくる。
実に不条理な経験であった。
他にも、対話ならぬ奇妙な「宣言」は山ほどあった。
「息子さんは、クラスにいるときに、よくダンボール箱のなかに入っていますが、それも息子さんなりの社会参加なので、私たちはあたたかく受けとめて見守っています」
本人が幸せなら、それでいいのだそうである。
息子がダンボールに閉じこもるのは、主に感覚過敏のせいだと私は思っている。
だって本当は、遊具を使ったり走り回ったりするのが大好きなのだ。
施設での耐え難い量の外界の情報を遮断する手段として、やむを得ずダンボールに入っているだけであって、本人はこのままでは決して幸せではないのだし、出来れば少しづつでも外界を理解させて、適応させる努力をしていかなければならないのだが、どのように説明しても、施設の先生方には何一つ伝わらなかった。
「偏食は、世話をしてくれる方々に迷惑がかかりますけど、ダンボールに閉じこもっていても、そんなに迷惑じゃないでしょう」
要するに、自分たちにとって迷惑でなければ、なんでもいいのだ。
家族はもちろん、誰よりも本人にとって、ダンボールへの引きこもりは、人生の可能性を狭めるだけで、なんのたしにもならない。
が、そんな理屈は、もとより彼らの眼中には存在しない。家族や本人にとっての迷惑は、「社会」の迷惑ではないからである。
驚愕すべき宣言としては、こんなものもあった。
「親の老後や死後の問題はおいといて、今が幸せなら、それが最高じゃないですか」
ほんとにすごい。正気なのかと聞き返したくなった。
いや、彼らがほんとうに言いたかったことは、私にだって分かっている。
「息子さんの障害は、施設でも手のほどこしようがありませんから、未来に希望を持つのはやめなさい(余計な手間をかけさせるな)」
そう言いたいのだ。そうすれば、丸く収まるのだからと。
ともあれ、息子は、こんなバカの巣窟、もとい障害児施設に、毎日通っていたのであった。
自閉症児の療育についての専門知識を全くもたない保育士が、施設の職員として採用されているということにも問題があるのかもしれない。そうだとしても、3時間にもわたって、昨日聞かされつづけた「宣言」は、障害児を毎日見ている人々の言葉としては、あまりにも良心に欠けるものであった。
ここまでとは知らずに入園させたとはいえ、もしも息子の発達を疎外するようなことにでもなれば、やはりそれは親の責任である。取り返しがつかないのだ。
在園機関は、まだ三年近く残っている。
さらなる「話し合い」の試みを続けるべきか。
もっと、上のほうと接触を試みるとか。
それとも、やめさせるべきか。
(2001年8月22日)
※過去日記を転載てしています。