湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

療育と親の思い

 

私が息子を療育教室に通わせていることについて、陰口をたたかれている、という話を伝え聞いた。

 

早期教育なんかにお金使って、バカみたい」
「療育なんて言っても、どうせ障害児の親の弱みにつけこんでるだけでしょうに」
「あんなところに通わせてお勉強させて、障害児にお受験でもさせるつもりなのかねえ」

 

陰口の主は全員、知的障害児の母親だったようだ。

 

似たような批判は、ネット上でもちょくちょく目にするし、全く同趣旨の批判メールを何本も頂戴したことがあるので、いまさらショックを受けるものでもない。

 

とはいうものの、「知的障害児の早期教育」にまつわる、こういった偏見や侮蔑意識の根強さには、ため息が出るばかりである。

 

早期教育」イコール「金のムダ」「親のエゴ」と言いたくなる気持ちは、私も分からないではない。教える仕事をしていたころ、子どもの教育で見栄を張りたい感じの親御さんたちに出会った経験があるので、その面倒臭さや、独特のいやらしさは、それなりに知っている。

 

けれども、教育の機会自体がいやらしいわけではない。

まして子どもが自分の能力を伸ばしたがっていて、能力を得ることで人生の質が高まることが分かっているのであれば、教育の機会を与えることを「親のエゴ」と決めつけるのは、合理的ではないだろう。

 

そういう決めつけとは別に、重度の知的障害児に対する善意の思い込みというものもある。

 

「障害児なのに、小さいうちからお勉強なんてさせるのは可哀そう」

「無理に療育なんかするより、のびのびと幸せな子供時代を送らせてあげるべきでは?」

 

という、一見やさしげな意見を語る人々は、自分が「差別と偏見の人」だなどとは、思いもしないだろうけれども、言っていることは、「障害児にお勉強をしても成長のたしにはならず、ムダだ」という決めつけを前提としているわけで、そこには純然たる「差別と偏見」が存在している。

 

「しゃべれなくても、勉強なんかできなくても、ありのまま生きているだけで、彼ら(重度障害児)はすばらしい」

 

という考え方は、すばらしいと思うし、私だってそう思う。

命をあるがままに認める気持ちがなければ、この世の中はとてつもなく生きにくくなるだろう。

 

けれども、成長の可能性がある子どもたちから、適切な教育の機会を奪って「ありのまま」に時を過ごさせることが、果たして幸福なありかたなのだろうか。

 

重度の知的障害児でなくても、適切な養育や教育の機会を根こそぎ奪われるようなことがあれば、悲惨な未来が待っていることは、少し想像を働かせれば、誰にでもわかることだ。

 

 

適切な療育の機会を持たせなければ、息子は、ほとんど喋れないまま成人するのだろう。それで息子が幸福であるのなら、何も言うことはない。

 

けれども、息子の生活を詳細に見ていると、なんとかしてしゃべりたい、伝えたいともがいている様子が手に取るようにわかってしまう。そんな我が子の苦しみを見ていて、何の手助けもせずにいられるものではない。そして、その手助けは方法が見えにく、重度障害児の親として経験の浅い私たちだけでは、到底まかないきれるものではない。

 

だから、たくさんの経験と方法を持っている専門家の力を借りる。

これは、「親のエゴ」だろうか。

 

息子はやさしい子供である。それは親の我々にはよくわかる。

でも現実の息子は、物を言えないフラストレーションや内面の衝動から、人を叩いたり噛みついたりしてしまうことがしょっちゅうある。獣のような声を上げるパニックに陥ることだってある。

 

親以外の世間の人々が息子に噛みつかれたり、パニックに巻きこまれたりして、「この子はやさしい子だから」といって容認してくれるとは、とても思えない。適切な療育や教育を受けられなければ、息子は愛や思いやりの世界に生きることすら難しくなるかもしれないのだ。

 

幼児期からの 「お勉強」を強いることを「親のエゴ」だという人々も、「やさしさ」や「思いやり」の心を幼いころから育むことについては、否定はしないだろう。

 

でも考えてみてほしい。

他者に思いを伝えるコミュニケーションの手段を持たず、行動のコントロールも難しい人の内面に、「やさしさ」や「思いやり」が育まれて秘められていたからといって、いったい誰がそれに気づくというのか。表出する手段がなければ、受け止められることのない「やさしさ」と「思いやり」を抱えた本人の孤独が、ただ増すばかりではないのか。

 

我が子の伝える力、理解し合える能力をのばしたいから、教育を与えたいという気持ちが「親のエゴ」であるというなら、子どもの幸せを願うこと自体がエゴであると言われると変わらない。

 

などということを、「お受験でもさせるつもりかしらねえ」と言い合っている人達や、「ありのままが素晴らしい」などと主張する人たちにも、いつかは分かってもらわなければならないのだろうが、いまの私にはとてもそんな体力はないから、せめてここに書きとめて忘れないようにしておこう。

 

 

 

余談。

うっかりファイナルファンタジー10をクリアしてしまって、数日がたった。

いま、二周目をやっている。夏がこんなに早く終るのは、やはり耐え難いからである。
(この状況下でよくやるよ・・・という声が聞こえそうだが、聞こえないことにする)

 

アルベド語がかなり分かる状態になっているので、一回目とは、また少し違った印象でゲームを楽しめる。

 

そういえば、FF10のシーンは、ビサイド島の夏にはじまり、秋・冬の季節を感じさせる地域を旅したのちに、最後の最後にビサイド島に戻って、夏に終るのであった。

 

(2001年8月20日)