湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

視座を変えれば怒髪天も他人の頭

この数日で、ひょんなことから新しい知り合いが何人も出来た。どのかたも、有効な情報と、いささかメゲかけていた私が必要としている励ましを、言葉にして書き送ってくださった。私はめぐまれている。ほんとうに、そう思う。

 

気持ちはもう定まっている。
息子のためにならない物は全て切り捨てる。親として出来る限りのことをやる。

 

それはいいのだが、ここに来て、施設側の息子への対応が、なんだかガラリと変わりつつあるようなのである。見違えてしまうような、こまやかな密着マーク、密着配慮。やさしい言葉がけ。いったいどうしたのだ。と、付き添って通園してきた亭主が言っていた。


先日の「話し合い」で、こちらのあからさまな不信感を読みとったために、プロとしてのプライドが刺激されて、がんばりに火がついたということだろうか。そうだといいのだが、父親が行ったから対応がよかっただけ、という可能性は高い。私が行けば、ここぞとばかりに報復のイジメに会うかもしれない。だいたい設立以来「療育は必要ない。何もできなくても愛されれば幸せ」という姿勢でやってきた施設が、一家庭の苦情程度で、そうそう変わるはずがない。

 

施設には不満を持っているけど、私だって、自分のしている「療育」に完全な自信を持っているわけではない。


息子の様子を注視しながら、いつだって迷いにゆれている。

 

厳しすぎるのではないかと思うときもあれば、足りなすぎて何も届いていない、と思うときもある。

 

何かほんとうに大切なサインを見落としているのではないかと、気がかりでたまらないときもある。

 

分からないことだらけだから、本を読み、ネットを調べ、そして結局、息子の様子を見に戻る。

 

その繰り返しである。

 

ほんとうは、「プロの」先生方だって、そうあるべきなのではないのか。

 

自閉症は一生治らないし、決まった治療や療育方法なんてない」と言い切り、親が療育をしようとするのを見つけたとたん、顔をしかめて否定する、通所施設の先生方の精神は、結局のところ、先行きの見えない子供の人生に寄り添ってしなやかに動くということを、最初から放棄しているのだと思う。


「愛される障害者であれば、それでいい」


という発想は、一見、ヒューマニズムに満ちているようであるけれど、実のところ、これほど差別的で傲慢な言いぐさはない。なにしろ障害者自身の気持ちや、十分に学び成長する権利、生き生きと社会に参加する希望を、最初から無視しているのだ。命を持った幼い人間を、これほど見下した言い方があるだろうか。我が子のことを、


「愛される以外に、何の能力もない人間」
「愛されなければ、何の価値もない人間」


などといわれたら、まともな親は誰だって怒るだろう。

でも、怒った話は、とりあえずもう止める。

 

尊敬する心理外来のM先生に電話して、今回の施設面談での一部始終をお話した。

 

先生は、一緒に怒ってくださり、また私の気持ちをこまやかにいたわってくださった。

 

けれども、とても冷静な方なので、施設の先生方の感情についても、広い意味での同業者として、丁寧に想像して説明してくださった。

 

それによると、たとえば私が、家での息子の様子を先生方に報告し、「こんなことができました」とか「こんな言葉を言いました」とか言うたびに、先生方は、プロとしての自分たちの無能さを指摘されたような気持ちになっているのではないか、という。

 

なにしろ息子は、施設にいるときには、「なにもできない子」を装っている。家では出来ることをやらず、言えるはずの言葉も出さない。先生方は、息子のダメな様子ばかり見せつけられてきているのである。

 

それなのに、親からは「家ではできました」「あの子はやればできるはず」という言葉ばかり聞かされる。先生方としては、自分たちでは、この子の能力を引き出せないことを思い知らされ、プロとしての焦燥感にかられる・・・・というのである。


そう言われてみれば、たしかにそうかもしれないと思う。


私にしてみれば、息子の成長を一緒に喜んでほしいだけだったのだが、報告を聞かされる先生方の顔には、どこか苦々しいものがあった。あの苦々しさは、「どうして自分たちにだけは、成長のあかしを見せてくれないのか」という、教育にかかわる人としての当然の思いだったのかもしれない。

 

心理の先生は、さらにこうも説明してくださった。

 

情けないことではあるが、日本の障害児施設の水準は低く、自閉症についてきちんと専門的な知識を持った上で療育に当たっている先生は、とても少ない。親の質問に、専門性に裏打ちされたアドバイスができる先生のいる施設は、おそらく国内に何箇所もないのではないか。自閉症のことを幅広く知っていれば、家で出来ることが施設ではできない、ということが、自閉症児には珍しくない現象であることも分かるだろうから、先生側としても落ちついて見守ることが出来るけれど、息子の施設の先生方には、恐らくそういう知識・情報がないために、家庭とのギャップを知らされることが、プレッシャーにしかなっていない可能性がある。

 

まして、我が家の場合、父親が言語研究者であり、両親で自閉症療育の専門書を大量に読み漁っている(と先生方は信じているようである)という事情がある。

「話し合い」の場で、プロとしてのプライドの維持に危機を感じた先生方が守りに入って固くなるのも、仕方がなかったのかもしれない。

 

「言葉なんかしゃべれなくても、愛されればいいではないか」というのは、息子の日々の成長を無視した、心無い発言ではあるけれど、日々障害児と向き合って暮らしている現場の先生が、本心からそう思って言っているとは思いがたい。先生たちなりの努力が子供の成長に反映されないことの焦りと、努力が親側に理解されていないことの苛立ちが、そういう言葉になって思わず出てきてしまったのだと考えたほうがいい・・・・。

 

心理の先生は、以上のように諭してくださった上で、

 

「いままでご両親でやってこられたことも、施設の先生方に言ったことも、何一つ間違ったことなんてありません。息子さんにとって最高のセラピストは、ご両親なのは確かですから、考えたうえで、一番いいと思われる方法を選んでください。もちろん、施設をやめてしまうという選択もありますし、今は来年以降も通いつづけるということは、考える必要はないでしょう。私立の幼稚園などと連絡をとって、次の場所の検討を始めてみたほうがいいですよ」

 

とおっしゃった。


電話が終ったとき、私の気持ちは、数日ぶりに、しっかりと前向きに戻っていた。

 

それにしても、心理のM先生は、本物のセラピストとはかくあるべきという、お手本のようなかたである。火のついたイノシシのようになっていた私を、小一時時間の電話で、すっかり普通に戻してしまうのだから。

 

しかもこの先生は、決してやさしいばかりの方ではない。
私が少しでも「頼ろう」とする姿勢を見せると、きっぱりと突き放してくださる。

 

「あなた、それは自分で本をお読みになって、解決できるでしょう」
「その問題については、きちんと主治医に相談なさい」

 

と叱られる。もう、かなわないなあと、思う。

 

 (2001年8月25日)  

 

※過去日記を転載しています。

 

 

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