湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

25年と30年と、飛んでいく記憶

こんにちは。

 

f:id:puyomari1029:20200117123004j:image

 

25年

 

今朝、車で走っていたら、役所の近くに消防隊員が大勢集まって、物々しくテントを張るなどしているのを見かけた。

 

大事故でもあったような設営風景なのに、隊員さんたちに緊迫感がないので、不思議に思っていたら、カーラジオが、今日が阪神淡路大震災から25年目だと言ったので、ああそれでかと納得した。

 

きっと、全国各地で、災害訓練のイベントが行われているのだろう。

 

四半世紀も前のことだけど、あの朝の記憶はまだそんなに薄れていない。

 

当時利用していたパソコン通信のフォーラムで(インターネットが何者なのか知らない頃だった)、とんでもない地震が関西を襲ったと書いている人がいたので、あわててテレビをつけてみたら、倒れた高速道路と、燃え上がる神戸の街が目に飛び込んだ。

 

見たものが信じられないまま亭主を叫び起こして、一緒に報道を眺め、映像に目を凝らした。

 

亭主の実家は兵庫県なのだけれど、あのような大災害では電話などすぐにつながるはずもなく、無事が知れたのは、夜になってからだったように記憶している。

 

地震の5年ほど前に、私たち夫婦は神戸で結婚式を挙げている。見覚えのある通りや建物の変わり果てた姿に、言葉もなかった。

 

 

30年

 

 

書いていて気づいたけど、そういえば、もうすぐ結婚30年目になるのだった。

 

何婚式になるんだろう。

 

調べた。

真珠婚式だった。

へー。

 

さらに調べた。

養殖の真珠は出来上がるまでに4年ほどかかるというから、30年よりはだいぶ短い。

 

でも仕込んだ貝の半数は死んでしまうそうで、生きながらえても、不良の真珠や、真珠とは言えない何かになるものもあるため、良質な真珠は3割にも満たないのだとか。

 

真珠も結婚生活も、サバイバルなところは似ているということか。

 

約40年前に亭主と知り合い、約30年前に結婚。

 

阪神淡路大震災の翌年に長女さんが生まれ(1996)、その翌年には長男が生まれた(1997)。年子育児の大戦争時代の始まりである。

 

で、その翌年(1998)、長女さんが難病にかかって長期入院を繰り返すようになり、亭主と私で交代で病院に泊まり込む生活となった。

 

その年、長女さんの難病について調べるために、インターネットを使い始めた。当時は今と比べると情報はとても少なかったけれど、それだけに、まともな情報を探しやすくもあったと思う。

 

そのときたまたま見つけたお医者さんのホームページに、将棋棋士村山聖が、長女さんと同じ病気であったことが書かれていた。村山九段が亡くなったのは、長女さんが発症した翌月のことだったということも、後になって知った。病気の情報を知るために、私の読書量とインターネット利用頻度は激増した。

 

そして、さらにその翌年(1999)、2歳になった息子が、「全く言葉を話さない」という現実を、受け止めざるを得なくなった。「男の子は、だいたい言葉が遅いから」という、世間一般のごまかしが無効になる程度には、息子の様子は、言語以外の面においても「普通」ではなかった。

 

翌年(2000)、重度の知的障害があることが判明。長女さんの通院と、長男の療育、検査、その他諸々のことで、ひたすら走り回る日々が始まった。走り回らないときは、やたらと本を読み、ネットで調べものをしていた。生まれて初めて出会った自閉症児が自分の息子だったわけで、手持ちの情報があまりにも少なすぎた。

 

その翌年(2001)、マンションを買って転居し、長女さんが幼稚園の年中組に、息子が障害児通園施設に、それぞれ入園した。

 

引っ越し準備のあたりから、体の震えや動悸がおさまらず、体重も激減。きっといろんなことのストレスがたまったせいだと思っていたけど、引っ越しの最中に、とうとう立っていることもできなくなって、病院に駆け込んだところ、バセドウ病だと言われた。

 

この年の9月(2001)、あの同時多発テロが起きた。

人が大勢ビルから飛び降りていく映像を見ているうちに、どんどん体調が落ちていき、それでも子どもたちの通院や療育に走り回っていたけれど、翌月には風邪でダウン。自分で運転して、かかりつけの内科に行ったものの、待合室で倒れて動けなくなり、そのまま入院となった。バセドウ病の治療薬「メルカゾール」の副作用で、無顆粒球症になっていたのだ。血液中の白血球が激減というか、ほぼ消失していたそうで、死亡確定の状態だったと、後から知った。病院に駆けつけた亭主は、ナースセンターで看護師にお悔やみを言われたという。

 

入院後、意識が戻った時には、頭の上に樽のような点滴の容器がいくつもぶら下がっていた。全身に間断なく激痛が走り、息苦しく、倒壊したビルの下敷きになっているような感じだった。ベッド脇で、医師と看護師が円陣を組んで、

 

「精一杯頑張りましょう、えい、えい、おー」

 

と、お通夜のような声でやったかと思うと、医師が私に向かって、

 

「息ができなくなるようなら、首を切開して管をいれますからねー」

 

と言ったけど、勘弁してほしいと言いたくても声も出ない。そこから先の記憶は途切れ途切れで、激痛、気絶、悪夢、覚醒の繰り返しのなかで、あー、死ぬのかな、やばいなと思ったけれども、「お迎え」のくる気配がなかったので、なんとかいけるかもと思ったりしたのを覚えている。

 

ほとんど死亡確定だった私が生還できたのは、白血球を強引に増やす注射を、毎日ガンガン打ってもらったかららしい。薬剤名はわからないが、一本一万円くらいだったと、後から聞いた。結婚直前に、職場に押しかけ……いや訪問勧誘しにきた保険屋さんの、ものすごく押しの強い勧誘に敗北して加入した積み立て型の生命保険が、初めて役に立ったっけ。そういえばあの保険、30年で満期だったような。今年か。老眼鏡でも買おうかな。

 

そういうわけで、バセドウ病は投薬治療できなくなったので、入院中に新宿の某大学病院の外来に行き、そこで放射能入りカプセルを飲んで、甲状腺の細胞を潰すというやり方で、症状を抑えることになった。

 

年末には退院できたものの、飲んだ放射能が子どもたちに影響を与えないように、自宅内で隔離状態で過ごすことになった。死にかけ状態だった体力が戻って、なんとか普通に生活できるようになったのは、翌年の春(2002)だった。

 

こういう家庭生活だから、亭主の家事育児スキルは否応なしに爆上がりすることになる。私が動けないときは、なにもかもやってくれていた。いまもそうだ。今夜は鍋料理とのこと。ありがとう。

 

2003年には長女さんが小学校入学、長男はいろいろあって(職員との間で残念な揉め事があって)障害児施設を中退。療育教室に通いながら自宅でも療育をする生活をしていたけれど、集団生活を少しでも経験させたいということで、近所の家庭保育園に相談して、1日3時間ほど通園することに。翌2004年には、長男が小学校入学。2005年には、末っ子爆誕……

 

ここまでが、結婚生活30年の前半戦15年分なのだけど、前半に比べると、後半の15年は目に見えないような勢いで飛び去った感じで、ほんとに15年も経ったのかと疑わしくなるほどだ。

 

これを書いていて気づいたのだけど、若い頃の古い記憶のほうが、直近の出来事よりも、思い出しやすいようである。

 

もしかすると、直近15年が短く感じられるのは、現在に近い出来事ほど、記憶が抜け落ちているからなのだろうか。

 

脳の老化のせいで起きていることなのだとしたら、ちょっと困る。予防したい。

 

DHAの摂取を増やそう。

それと、日記の更新量も増やそうか。記憶維持のためにも。