湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

ねこたま日記(この10年)

こんにちは。

 

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今日はちょっと体調がよく、身体が軽い。

とはいうものの、無理せず、ゆっくり動いている。

 

あと数日で年齢の十の位が一つ上がる。

とくに感慨もないけれども、この10年で何をやっていたのかを咄嗟に想起できないことに呆然とする。

 

ほんと、何やっていたんだろう。(´・ω・`)

 

 

10年前というと、長女さんは高校一年で、息子は特別支援学校の中等部三年だったはず。で、末っ子は小学2年。

 

うん。

大変だった。

 

長女さんは持病(小児慢性特定疾患の一つ)と、強い抑鬱…いまなら発達障害による不適応だったと分かる…のために、地元の中学を完全不登校のまま卒業し、通信制高校とそのサポート校の両方に進学している。中学三年間は長女さんより私のほうが頻繁に登校し、そして、揉めた。あまり思い出したくないけれども、当時、病気のための不登校に対する学校側の理解は、ミジンコよりもちいさく、なんとか教室と自宅の長女さんとを繋げたいと願って連絡帳を持って通っていた私は、忙しい担任や学年主任の先生方に、ただただ持て余されていた。

 

あの頃、義務教育の現場に今のようなネット環境があれば、長女さんは不登校にならずに済んだかもしれない。同じような境遇の生徒たちの何割かは、おそらく救われていただろう。その意味で、新型コロナ禍のもたらした影響は、決してマイナスのものばかりではないと思う。

 

息子は地元の小学生の特別支援学級から支援学校へ転入し、そこで高等部まで通った。息子にとって、支援学校の6年間は幸せな体験だったらしく、いまでも卒業アルバムを懐かしそうに眺めていることがある。

 

けれども私にとっては、親のお付き合いやPTAでストレスを溜め込む日々でもあった。子どもが3人もいると、PTA役員の回ってくる回数も否応なしに増えてしまう。結局3人分で7回役員をやった。そのうち一年は小学校と支援学校の執行部役員の兼任だった。執行部などに立候補するつもりなどなかったのに、通常の役員希望のプリントと間違えて記入してしまった立候補用紙をうっかり捨て忘れていたら、息子が見つけて、勝手に提出してしまったのだ。提出物は連絡袋に入れて登校するということを几帳面に身につけていたためだけれども、学校から電話が来て「希望の役職が未加入ですが、副会長でいいですか?」と聞かれたときは、全く意味が分からず、ただただ困惑したものだった。まあ、いまとなっては笑い話だけれども、あの日々は本気でキツかったし、のちのうつ病発症の一因でもあったと思う。人間、全く向いていないことからは全力で逃げるべきだと学習した。

 

末っ子の小学校時代は、まさにカオスの一言だった。2歳になる前にひらがなを読んでみせて親を驚愕させた末っ子だけれども、隣の席の男の子とトラブルを起こして小学校入学1週間で登校拒否をかまし、担任の先生と深く深く相談することになった。

 

宿題は全面拒絶。

とくに国語の文字の練習、漢字の書き取りを死ぬほど嫌がり、手を持ってやっても書こうとしなかった。算数は足し算で絶叫、くりあがりのあるレベルになると、号泣して拒絶するのでどうにもならず、担任に事情を話して宿題を免除してもらったりもした。

 

忘れ物、紛失物は日常茶飯事で、毎日鉛筆や消しゴムを無くして帰ってくるのにはほとほと困った。ときには衣類やランドセルを忘れてくることさえあった。そのあたりは私の幼少期と似ていたのだけど、私は筆箱の中身が3日で入れ替わるほどではなかったし、ランドセルを忘れて下校したこともない。これは、ただごとではないと思って頭を抱えた。

 

担任の先生に、末っ子が教室では全く声を出さず、無表情で過ごしていると聞き、自宅での大癇癪炸裂の暴風っぷりとの落差に眩暈がした。

 

勉強の拒否については何らかの学習障害ではないかと疑って、息子が通っていた療育教室に相談し、発達障害児としてお世話になることになったものの、小学三年になっても全く改善せず、私は担任の先生との「お話し合い」に通う日が続いた。提出物も自力では出せないため、連絡帳なども含めて、毎日直接職員室に届けに行った。行動療法的アプローチは、末っ子にはほとんど効果がなかった。

 

その後、療育教室の先生の勧めで、大きな病院の発達障害外来を受診し、ADHDという診断をもらい、漢方薬などを処方してもらったのだけど、味覚過敏気味の末っ子を服用を拒絶。

 

ところが処方をコンサータに切り替えた途端、末っ子は激変した。宿題を普通に片付けるようになり、テコでもやろうとしなかった漢字学習をあっさり克服。他の教科でも困ることはなくなった。コンサータが奏功している状態で知能テストを受けたところ、IQ140。ギフテッドだと言われた。特に言語系の能力が高いという。

 

ギフテッドについて、ほとんど何も知らなかったので、ネットなどで情報を集めたところ、教育にはいろいろと配慮する必要があるらしいと分かり、療育教室の先生の勧めもあって、私立中学へ進学させることを考えはじめた。そのままいくと、長女さんが不登校を完遂した地元の公立中学に進むことになるけれども、定型発達ではない生徒に対する無理解のひどいことがわかっている学校に通わせる気にはなれなかった。

 

とはいうものの、中学の「お受験」など自分でも未経験だし、近隣の私立学校の情報もない。どうしたものかと思ったものの、餅は餅屋、受験は専門家に任せるべきかということで、家から徒歩20秒のところにある学習塾に相談し、そこに入塾した。結果、小学6年生の末っ子は、療育教室二つと、学習塾一つに通うことになった。

 

当時の私は、長女さんの通院とカウンセリング(あわせて月5回ほど)、息子の登校と役員仕事と療育教室(土日以外ほぼ毎日)、末っ子の療育と受験勉強のつきあいで、ほぼ忙殺されていたと思うのだけど、一体どうやって暮らしていたのか、もはやあまり覚えていない。思い出せないほど、異様な生活だったのだろう。

 

その後。末っ子は中学に合格。

勉強は、ほどほどをキープ。赤点だけは絶対に取らないというのをスローガンにして、現在までそれを守っている。地獄のような忘れ物体質は、宿題を全部学校で片付け、教材その他授業で使うものはすべて学校に置いて帰るというやり方で「克服」したようだ。

 

息子は支援学校高等部を卒業して介護施設への通所を開始。並行して福祉サービスでの遠足なども利用。コロナ感染その他、まあいろいろあるけど、基本的に楽しく通っている。

 

長女さんは専門学校に進学し、頑張ったけれども、2年目に入って精神的にきつすぎて休学。その後、福祉のボランティア活動や、介護施設等でのアルバイトをしていたものの、本格的に調子を崩してしまって長期入院となる。その時点で、自閉症による不適応からくるストレスによることが明らかとなって、人生や生活環境の根本的な見直しを迫られることとなった。それが去年のことで、今年も春に同じように不調となって長期入院したものの、いろいな折り合いがつくようにもなってきて、いまは通院とデイケア、カウンセリング、就労支援施設での作業をルーティンとして、ずいぶん落ち着いている。ここまでくるのに時間はかかってしまったけれども、有難いことだと心から思う。

 

というような暮らしを送りつつ、うつ病の治療過程でADHD自閉症の診断をもらい、新型コロナ肺炎とその後遺症やらで体を壊すというのが、この10年の私だった。

 

ここまでざーっと書いてみて、亭主の話が全く出てきていないけれども、私が病気で倒れたり、過敏性腸症候群のおかげで外出がままならなくなったりしたときに、家事をやって学校行事に全部参加してくれたのが亭主だったことは言うまでもない。

 

切に願う。

次の10年は、できることなら、もう少し穏やかに暮らしたい。

 

(´・ω・`)