こんにちは。
昨晩、末っ子に読んでもらった『自閉症のぼくが「ありがとう」を言えるまで』という本から、少し長めに抜き書きをしてみたたくなった。
著者のイド・ケダーさんは、うちの息子(22歳)と同じように、重度の知的障害があると言われていた自閉症の少年で、執筆時は12歳だったそうだ。
息子より一つ年上だというイドさんは、息子と同じような常同行動と、自由に発語できない問題を抱えたまま、普通高校に進学して優秀な成績をおさめ、卒業後は大学への進学を準備しはじめたという。
彼の高い知性や、奇跡のような学歴は、とてもセンセーショナルではあるけれど、そういうところに引き付けられたのではない。
彼のつづる内面の孤独と怒りの言葉は、同じような症状の息子を持ち、長年療育に奔走してきた私の胸に、容赦なく突き刺さるものだったのだ。痛い。ほんとうに痛い言葉が、本書には詰まっている。
痛すぎて、なかなか読み進められないから、ここで抜き書きしながら過去の息子の様子を思い起こし、無理やりにでも飲みこもうと思うのだ。
一日か二日黙ってすごすことは、だれでも想像できる。
じゃあ、一生ずっと沈黙を通す人生を想像できるだろうか?
この沈黙とは書くこと、みぶり、言葉以外のコミュニケーションも含む、「完全な沈黙」だ。
これこそ会話のできない自閉症者が一生すごす世界なのだ。希望がうすらぐのもむりはない。
それでもがまんしてABA(行動療法)やフロアタイム(自閉症治療に焦点をあてた遊び)に取り組むけれど、どれもなんの効果もない。
セラピストさんには助けてもらえない。
自分の頭がまともだということを知っているのは自分だけなのだ。
断言できるけれど、これは一種の地獄だ。
一行読み進むごとに、胸のあたりで思いが破裂しそうな気持になる。
希望のうすらぐ地獄のような人生。
幼いころからABAの療育を受け続けていた息子も、そんな思いに囚われていたこともあったのだろうか。
ピースが三つほどしかないジグソーバズルや、机の右と左に山盛りにつみあげた、みかんとりんごの模型のどちらかを選び取る課題などをやらされながら、幼児期の息子は、どんなことを思っていたのだろう。
専門家の先生たちはスティムの管理や、決まりきったドリルや、粘土のおもちゃを探すようなくだらない遊びはかりをさせる。何度も何度も、いつまでも。
でも先生たちはコミュニケーションのしかたを一度も教えてくれなかつた。
ぼくは心の中で先生たちに叫んでいた。
「ぼくに必要なのはコミュニケーションなんだ!」
先生たちは一度もこの叫びに耳を傾けてくれなかった。
これが沈黙の世界だ。
(イド・ケダー著『自閉症のぼくが「ありがとう」を言えるまで』飛鳥新社)
特別支援学校の高等部を卒業するまで、息子に与えられた課題は、小学校の一年生が入学序盤でやるような、ほんとうに簡単なものばかりだった。
高等部に進学しても、幼児向けの絵本が授業で使用されていた。
毎年新学期になると、二十冊ほどの絵本が配布され、大きな紙の袋につめて、持たされて帰ってきていた。
担任の先生方は、それぞれの生徒の好みを慎重に考えて、心をこめて本を選んでくださっていた。それは親の私にとっては、とてもありがたいお気持ちだった。
でもそれらの絵本に息子が興味を示すことは、ほとんどなかった。
そのかわり、息子はときおり、私の読んでいる文庫本をこっそり持ち出して、ページを開いて眺めていることがあった。
私が読んでいる本を狙うようにして持ち出して、どこか分からないところに置いてしまうものだから、読んでいる本を息子に知られないようにしていた時期もあった。
私がkindle本ばかり読むようになってからは、息子に本持ち出されることはなくなった。
息子は、私の本を「読んで」、理解していたのだろうか。
分からない。
特別支援学校の高等部では、普通高校のような知識を与えてくれる授業は、ほとんどなかったと思う。
私たち親も含めて、周囲の誰もが、息子に高校レベルの古典や漢文、歴史や地理、数学や科学の概念が理解できるとは思っていなかった。私自身は文学や古典、歴史が好きなのに、息子がそういうものを好む可能性については、全く考えたことがなかった。
確かめる努力を全くしてこなかったことについては、後悔しかない。
机上の勉強は少なくて、そのかわりに作業メインの授業に多くの時間がとられていた。
木工や、紙漉き、印刷、陶芸などだ。
洋裁や農作業の授業もあったけれど、息子は卒業まで一度も参加しなかった。
農耕については、土などを口にいれる異食行動があったため、避けられたのだろうと想像している。
洋裁は、針類など、細かくて危険な道具を多く使うことが、忌避の理由ではないかと思う。息子の不器用さや、危険に対する自覚の薄さをよく知っている私としても、学校の判断に異論はなかった。
他にもほんとうにいろいろな手作業を、息子は学校や療育教室で教えられていた。
絵画。
版画。
書道。
粘土などでの造形。
ビーズ手芸。
刺繍(手に刺さりにくい特殊な針を使って行う)。
革細工。
簡単な調理。(火を使わない肯定のみ参加していた)
クッキーなどのお菓子づくり。
学校で経験する、比較的簡単で安全な、さまざまな手作業のなかで、何か一つでも、息子が気に入って生涯の趣味にできるものが見つかればいいと願っていた。
小学校の夏休みで、私も手伝って一緒に描いた絵は、何かのコンクールで賞をもらっていた。
中学のころに息子が学校で焼いてきた長皿は、毎年元旦の朝、ブリの照り焼きをのせるために使われている。
でも、それらの経験は、息子にとって、すべて一過性のもので終わってしまった。
親の私が伴走して続けさせる努力が足りなかったこともあると思う。
でも、上に書いたような製作行為全般について、息子がそれほど好まなかったということが、続かなかった最大の理由だった。
学校や療育教室では、それほど嫌がらずに向き合っていたけれど、自宅で同じことをしようとしても、はっきりと拒否されることが多かった。
ほんの少しでも、自分からやりたそうな様子があれば、私も一緒に頑張れたかもしれないけど、嫌がることを強制して継続することは、私には無理だった。
息子が自宅で唯一いやがらずに続けられたのは、文字の読み書き、漢字の練習などの「お勉強」だけだった。たぶん、文字を読むこと、書くことが、息子は好きだったのだと思う。
療育教室をやめて三年近くになるけれど、食卓の息子の椅子には、教室のカバンがかけてある。もうずっと使っていないのに、カバンをそこから移動しようとすると、息子は激しく怒る。
でも私は、当時と同じような、ABAの療育や、読み書きなどのプリント学習を、息子に課す気にはならない。だってそれは、十数年間、ほんとうに膨大な量を続けてきたにもかかわらず、息子のコミュニケーション能力の向上に、何も寄与しなかったのだから。
だけど、もっと何か違う方法の勉強であれば、何か変わるのだろうか。
ぼくは幼いころから字が読めた。書くこともできた。
ただ指が不器用すぎてそのことを示せなかった。
学校ではABCのテープを何度も何度も聞かされ、1+2=3の足し算を何度も何度もやらされて座っていた。
悪夢だった。心底うんざりしていた。
そのせいでぼくの内面は死んでしまった。
なんの希望もなかったから、ぼくの内面はゾンビみたいだった。
息子が自力で文字を書けるようになったのは、わりと早かったと思う。
小学校入学の時点で、ひらがな、カタカナは、ほぼ書けていた。
幼児期から気が遠くなるほどの練習を重ねて、身につけることができたスキルだ。
ただ、手本の写し書きであったり、示された絵カードの中にあるものの名前を書いたり、人が読みあげた言葉を書き取ることができただけで、自分の思いを言葉にしてつづるということはなかった。
口でしゃべることが難しくても、筆談ならできるようになるのではないかと期待して、文字の読み書きの練習には、最も時間を割いてずっと続けた。二十歳を過ぎるまで続けていた療育(ABA)の先生にも、そうお願いしつづけていた。
息子の成人が近づいてきたころ、療育(ABA)の先生に言われた言葉は、いまも心に刺さっている。
「読み書きの力や勉強が、なまじっか出来るようになってしまうと、大人になってからの生活に適応しにくくなりますよ」
そういう事例を実際に見ておられるのだろうと思わされる言葉だった。
いまの私なら、
「具体的に、どんなふうに適応できなくなるのですか? その不適応は、ほんとうに"能力がなまじっか"高くなった"せいなのですか? スキルが高くて不適応になるというのは、周囲の理解や環境の調整のほうにも問題があるのではないですか?」
と聞き返したことだろう。
でも当時はそんな勇気がなく、黙り込むだけだった。
別のときには、
「読み書きの練習ばかり続けてきていても、学校卒業後に長く身を置くことになる介護施設では、そうしたスキルを生かす機会がないのだから、もっと実用的なスキルや、余暇活動に参加できるようなスキルを身につけるべき」
というようなことも言われた。
息子には自分の思うことを表出する能力がない、コミュニケーションスキルを身につけられるような知的な土台がそもそも存在しないと見切った上での、「専門家」のそうしたアドバイスを、当時の私は、ただ苦々しく受け止めるだけだった。息子の知的な成長の可能性について、あまり強く主張しつづければ、「我が子の現実を無視して自己満足のために身勝手な希望を抱く親」というような、「モンペ」的レッテルを貼られる可能性もあると感じて、なおさら黙するばかりだった。
そんな経緯もあって、息子の療育の時間からは、何年やっても効果の見えなかったVOCA(コミュニケーション支援のための器具)などを用いた練習のプログラムが消え、トランプやカルタなど、介護施設のレクレーションで取り入れられるようなのゲームを身につけるための時間に入れ替わっていった。
息子は、数年かけて、カルタやすごろくのやり方をある程度は覚えた。
でもマス目が十個ほどしかない、先生お手製のすごろく盤の上で、コマを動かしている息子は、ほんとうに、あからさまにつまらなそうな顔をしていた。
ゲーム性を楽しむということが理解できなかったのか、単に退屈でつまらないと感じていたのかは、わからない。もしかしたら、ゲームで遊ぶという概念自体が、息子の中にはないのかもしれないとさえ、当時は思ったものだ。
けれども、やがて息子は、wiiスポーツリゾートというゲームソフトの中にある、プロペラ機でアクロバット飛行をするゲームの達人となって、自らのゲーム適応力を家族に見せつけることになる。
あれは、ほんとうにすごかった。
峡谷をすりぬけてターゲットを通過するような難関クエストを、ラクラクと操作してクリアしてしまうのだ。しかも、息子はコントローラーを足で操作するのである。私などは何度練習しても墜落するだけだった。
豚のポルコになった気持ちで、息子はブロべラ機を自在に飛ばしていたのかもしれない。
七歳のときに変化があった。
お母さんと一緒にすわって、誕生日パーティの招待状を作っていた。
字を書けるように、お母さんはぼくの手を支えていた。
ぼくはお母さんの手の下で字をつづっていった。
ふと、お母さんはぼくの手が勝手に動いているのを感じ取り、ということはこの子は字を書けるんだと気づいた。
ぼくたちは一緒に書いた。
お母さんはぼろぼろ泣いて、もっと早くに気づいてあげられなかったことを謝った。
ぼくは怒って、ののしってしまった。
彼のお母さんの気持ちが痛いほどわかる。
七歳の我が子に責められて、どんなにか深い罪悪感に囚われたことだろう。
お母さんに手を支えられることで、自分の言葉をつづれるようになったというエピソードを公表している自閉症者はほかにもいる。
東田直樹さんが、たしかそうだったはずだ。
ビルガー・ゼリーン(birger sellin )という、ドイツの自閉症の青年も、そうだった。
ビルガー氏は、中原中也の詩集を思わせるような、鮮烈な手記を出したあと、世界各国で翻訳されて大変な評判になったものの、母親のやらせであるという、マスコミが引き起こした批判や中傷のために、非常に苦しんだと伝え聞いている。もう五十歳近くになっているはずだけど、いま、どうしているのだろう。
下の写真はビルガー・ゼリーン氏の著作である「もう闇のなかにはいたくない 自閉症と闘う少年の日記」のスペイン語版の表紙。
東田直樹さんのコミュニケーション能力に対しても、いろいろと「専門家」の批判があったようだけれど、大人になってからの講演の動画を見ると、母親は傍らにいるものの、完全に自立して発話していることが分かる。
こうした事例が世界的に増えていけば、やがて、「やらせ」であるという批判は過去のものになっていくことだろうけれども、当事者にとってはたまらない痛みであることは変わらない。
「専門家」の多くは科学者であり、研究者としての訓練を積んできた人びとであるから、客観的に実証できない現象に対して懐疑的になったり、否定的であるのは、当然のことだろう。
けれども、冷静に考えてみれば、彼らの批判は合理的ではないように思うのだ。
科学者であれば、次のように考えるべきではないのだろうか。
健常者と同じように言語を使えないことや、言語に対する反応が正常でないこと、知能検査の結果が著しく低いこと、言語以外の生活スキル全般が極めて低いこと、社会生活に不都合な多様な問題行動を抱えていることは、その人が高度な言語表現を理解する能力を持たないことを実証するものではないと。
むしろ科学者であるならば、うちの息子のように、脳の精密検査をしても言語野に何の損傷もみつからないにもかかわらず、積極的に言語を使おうとしない「重度の知的障害をもつ自閉症者」が、「ほんとうに言語を理解していないのか」について、究明すべきではないのか。
何も私は「すべての重度知的障害を伴う自閉症者が実は高い知性を持っている」などと言いたいわけではない。振る舞いがうちの息子と変わらないように見える、イド・ケダーさんや東田直樹さん、ビルガー・ゼリーン氏は、多くの重度自閉症者のなかの、稀有な事例であるのかもしれない。
だけれど、持っている可能性を、なんら科学的でも合理的でもない決めつけで否定されるいわれもない。
「専門家」の方々には、かつて、同じように「専門家」と呼ばれる人たちが、自閉症は人格的に欠陥のある「冷蔵庫マザー」が引き起こすものであると断じて、ひたすら母親を責めていた時代があったことを、ぜひとも思い出してもらいたい。
この「黒歴史」の影響はほんとうに長く続いた。
ほぼ言い出しっぺであるところのレオ・カナー医師が亡くなったのは、1981年だそうだけど(私が大学に入った年だ)、おかげ様で息子が診断された1999年にも、まだ巷には「親の育て方が悪い」と言い切るひとがいくらでもいて、そうした人々に私も責められてきたのだ。
最後の引用は、ちょっと長い。
ぼくたちはそれからよく一緒に書いた。
気晴らしにはなったけれど、でも生活は変わらなかった。だれも全然信じてくれなかったのだ。
ABAの先生たちは、あなたはまちがっている、とお母さんをつっぱねた。
これには深く傷ついた。喜んでくれて、もっとうまくコミュニケーションをとる方法を教えてくれるものとばかり思っていたからだ。
ぼくはこの人たちと一緒にやっていくのをやめた。
学校はなにも変わらなかった。先生はぼくのことを疑っていた。最悪の気持ちだった。
お母さんは科学者である御父さんさえ説得できなかったので、ぼくはすごくさびしかった。
ぼくはお母さんとしかコミュニケーションができなかったので、腹が立って死仕方がなかった。
お母さんはぼくの不満の矛先になったけれど、耐えてくれた。
そんなときにソマ先生と出会った。
ソマがぼくの人生を救ってくれた。
彼女はかしこい人間を相手にするように話しかけてくれた。段階を追ってコミュニケーションのしかたを教えてくれた。彼女が助けてくれたことに一生感謝する。
ABAの先生は、頑としてぼくを信じようとはしなかった。ぼくがソマと一緒のところをン冊して、これは「プロンプト」(自閉症者が作業に集中できるように指導者が与える手助け)て、「この子はほんとうにコミュニケーションしているわけじゃない」と考えた。
ぼくもあの人たちのことが大嫌いだった。あの憂鬱なころのことは思い出したくもない。
でも、徐々にのひとりでできることが増えてきて、お父さん、そして学校などで支えてくれていた人の中でも疑いがうすらいできた。
いまではぼくが知的でユニークな人間だとみんなが知っている。
ぼくの中に真実をみつけてくれたお母さんに、そして目を開いてくれたお父さんにも感謝を。
もう、もの言わぬ少年ではないぼくを、この不思議な世界に導いてくれた両親がいてくれてほんとうに幸運だ。
イド・ケダーさんが学んだのは、ラピッド・プロンプティング・メソッド(RPM)というコミュニケーション方法だそうで、提唱者のソマ先生の著作の邦訳がすでに出版されている。
私は未入手である。
読んでみたいという気持ちはあるけれども、それより先に、まず、息子に「聞いて」みたいと思うのだ。
また勉強してみたい?
ことばの練習、ひさしぶりにやってみたいと思う?
息子がことばで「答える」ことは、たぶんないだろう。
口頭での、こうした問いかけ、質問に対して、ことばで応答するというスキルが、息子にはないのだ。
でも今朝、上に引用した箇所を、私が「音読」している間、息子は背後をうろうろと歩き回りながら、あきらかに「聞いて」いた。
時間をかけてみようと思う。
※この記事はABA(応用行動分析学)に基づく自閉症児の早期療育を全否定するものではありません。いまとなっては「嫌い」だけど、それは個人的体験から引き起こされた感情にすぎないもので、なんら合理的な批判ではないことを付け加えておきます。申し訳程度に。