湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

歴史音痴と大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(6)悪い知らせ

第六回「悪い知らせ」を視聴した。

ほんとうに、悪い知らせの多い回だった。(´・ω・`)

 

www.nhk.or.jp


八重という女性


伊藤祐親の娘八重(新垣結衣)は、頼朝との間に生まれた息子千鶴丸が、既にこの世にいないことを、伊豆山権現の僧である覚淵に知らされて、墓の前で号泣する。

 

Wikipediaによると、八重という女性の名前は、「吾妻鏡」には出てこないのだそうで、「曽我物語」や「(延慶本)平家物語」などでは存在に触れられているものの、だいぶ影が薄いようで、名前も生涯もはっきりしないらしい。


「源平闘諍録」では、八重は頼朝のはからいで相馬師常(千葉常胤の息子)と再婚したと書かれているという。

 

曽我物語」の八重は、頼朝が政子と恋仲になっているのを見て、真珠ヶ淵で投身自殺を遂げたことになっているそうだ。


さらに、頼朝と八重の子、千鶴丸菩提寺である最誓寺(静岡県伊東市)には、八重がのちに北条氏と縁を結んだという伝承があるのだとか。


そして、歴史学者の坂井孝一氏は、根拠がはなはだ薄弱であるとしながら、八重姫が夫・江間の小四郎の戦死後、「阿波局」という呼び名で頼朝の御所で働くようになり、江間氏の所領を受け継いだ北条義時と再婚して、北条泰時を産んだのではないかという、とてもドラマチックな仮説を提示しているのだそうだ。(以上の八重に関する情報はWikipediaの記事による)

 

「鎌倉殿の13人」では、父の祐親によって頼朝と離縁させられたあと、家人の江間次郎(芹澤興人)に無理やり嫁がされ、すぐご近所の川向うにある北条館の庭先で、娘の大姫と遊ぶ頼朝を、未練がましく見つめる場面があった。

 

その八重の再婚相手の江間次郎は、別名を江間小四郎というらしい。

この人も「吾妻鏡」には登場せず、頼朝挙兵の治承四年(1180)に亡くなったようなので、たぶんドラマの中でも遠からず退場するのだろう。


北条義時もドラマの中では小四郎と呼ばれている。

そして、「吾妻鏡」の中では、義時は「江間殿」とも呼ばれている。


八重の再婚相手と、北条義時の名前が、思いっきりかぶっているのは、なぜなのか。


ここは歴史音痴ならずとも、八重の再々婚相手が義時だったんじゃないと想像するんじゃないかと思う。


今後、ドラマのなかで二人の関係がどうなっていくのか、ちょっとドキドキする。

 

そういえば、根拠が薄いとしながら八重が北条泰時の母ではないかという説を挙げているという、坂井孝一氏の著作「源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたのか」が、kindle unlimited(読み放題)で読めるのを見つけたので、読み始めてみている。

 

坂井孝一「源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたのか」(PHP新書)

 

私のような歴史音痴にも読みやすい本だ。

ドラマで出てきた顔ぶれを思い起こしながら読むと、なかなか楽しい。

 

伊豆から安房

 

ドラマでは、石橋山の戦いを生き延びた人々が、安房の安西景益(猪野学)の館で再会していた。


平家方の秩父市と三浦氏が戦った衣笠城の陥落は、敗走した三浦義澄(佐藤B作)によって、安西景益の館に伝えられた。


北条宗時(片岡愛之助)の死の知らせは、仁田忠常(高岸宏行)によって、頼朝の観音像とともにもたらされた。


宗時は、前回「兄との約束」で、伊豆北条館に残されていた観音像を取りに戻る途中、善児(梶原善)という薄気味悪い下人に殺害されてしまった。

 

観音像が館に残っていたことを知った義時(小栗旬)は、兄の死を察して、父時政(坂東彌十郎)に伝える。


夕暮れ時の安房の海岸での、時政・義時父子の情愛深い語らいのシーンは、とても心を打つものだった。


でもこの父子、25年後に、父の後妻の牧の方(宮沢りえ)が中心になって引き起こすらしい、クーデター未遂騒動(牧氏事件)のせいで、完全に決裂することになるようだ。


これまでも、父時政の軽薄で無責任な言動にあきれた義時が、半目でため息をつくような場面が何度もあった。そういう細かな意見の違いが積もり積もって、いずれ情愛だけでは復元できない致命的な亀裂になってしまうのだろうか。

 

観音像は、北条館に残されていたご本尊と、頼朝が持っていたミニ観音像の二体が登場する。

 

ドラマでは、石橋山の戦いに敗れて、安達盛長(野添義弘)や土肥実平(阿南健治)と一緒に洞窟に隠れていた頼朝が、髪の毛の中からミニ観音像を取り出すシーンがあった。

 

その場面は、「吾妻鏡」では次のように書かれている。

 

此の間、武衛、御髻(もとどり)の中の正観音の像を取り、或る巌窟に安んじ奉らる。(土肥)実平、其の御素意を問ひ奉る。仰せて云はく、首を景親等に伝ふるの日、此の本尊を見、源氏の大将軍の所為に非ざるの由、人、定めて誹りを貽す可しと云々。件の尊像は、武衛三歳の昔、乳母、清水寺に参籠せ令め、嬰児の将来を祈り、懇篤に二七箇日を歴、霊夢の告げを蒙り、忽然として二寸の銀の正観音の像を得、帰敬し奉る所なりと云々。

 


【現代語訳】

 

この時、頼朝は御髻の中の正観音像を取り出し、ある巌窟に安置された。

 

土肥実平がその理由をお尋ねした。(頼朝)は「首が景親らに渡った時、この像を見て、源氏の大将軍のすることではないと、人々がきっと後々まで非難するであろう」と仰った。

 

その像は、頼朝が三歳の昔、乳母が清水寺に参籠し、頼朝の将来を祈り、熱心に十四日間を経て、霊夢のお告げを蒙り、忽然として二寸(約六センチメートル)の銀の正観音の像を得て、信仰されていたものという。


吾妻鏡」角川文庫 ビギナーズクラシック

 

 

乳母の熱烈な籠ったミニ観音像は、頼朝が信心深い性格になるきっかけだったのかもしれない。

 

頼朝が潜んでいたという、「しとどの窟」を、googleストリートビューで見学してみた。

 

 

上の土肥椙山の洞窟のほかに、真鶴港の近くにも、頼朝が隠れたといわれる「しとどの窟」があるそうだ。

 

googleマップで調べたところ、石橋山の古戦場から、土肥椙山の「しとどの窟」まで歩くと4時間41分(21.6km)、そこから真鶴港のほうの「しとどの窟」までは、3時間17分(16.7km)となっていた。

 

平安末期には今のように道が整備されていなかっただろうし、襲ってくる敵をかわしたり、身を隠したりしながらの行軍だから、もっともっと時間がかかったことだろう。

 

食事

今回は、玄米のおにぎりが印象的だった。

 

自分では作ったことがないけど、玄米のおにぎりって、握りにくいんじゃないかと想像する。

 

発芽玄米を白米にまぜたご飯でも、だいぶ握りにくかった。

炊き方にもよるのかもしれないけど、ぱらっとして、まとまりにくいのだ。

 

ドラマのなかの玄米おにぎりは、だいぶ固そうに見えた。あれはよほどの力で握りしめて、丸く固めたんじゃなかろうか。