万葉集に出てくる感動表現の「はしきやし」がどうにも気になって、いろいろ調べているのだけど、どうもよくわからない。
古典を専門とする亭主にも聞いてみても、「はしきやし」は、語源的にも意味分析面でも、すっきり解くのが難しいという。
で、単語そのものの分析ではなくて、「はしきやし」系の表現が出現する文脈の傾向から、同じような状況で使われやすい語群というものを割り出せないかと思いついて、そういう視点で万葉集を眺めてみている。
前にも書いたと思うけども、「はしきやし」という表現は、死んでしまった人や、二度と訪れることのできない場所(故郷・会うことのできない恋人のいる地)に向かって、強烈愛惜の思いがほとばしるようなときに発せられることが多い。
二度と取り戻すことのできない何かを思って言葉を発するとき、絶唱とも言える歌を詠むとき、古代の人々はどんなイメージをその発話の中に繰り込むのか。それは現代の日本人とはどう違っているのか。
そんな観点から、改めて万葉集を読み直しているのだけど、読んでいて、ちょっと気になることがあるので、今日、亭主と徒歩で買い物に出かけて帰る道すがら、聞いてみた。
「あのさ、万葉集って、男と男の相聞歌、結構あるよね」
「あるな」
「あれ読んでると、ほとんど恋人同士のやりとりとしか思えないようなのもあるんだけど、もしかして、古代では『友情』を示す表現が乏しくて、恋愛的な感情表出で代用してたとかいうこと、あるの?」
「ないな」
「じゃあ、冗談でやってるわけ?」
「いや冗談でもないな」
「じゃああれかな。恋情から友情までのスペクトラムがあって、その間でいろんな表現が選ばれるみたいな感じ?」
「あのな、例えばやな、蘇我入鹿おるやろ? あれは同時代の藤原鎌足なんかと一緒に学問習ってたりしたかもしれんのや」
「そうなんだ」
「つまりやな、同世代の若い男が大勢集められて、教育を受けさせられる環境があるわけや。ようするに、男子校やな」
「ふむふむ」
「で、男ばっかりの環境で、みんな同じ教養を詰め込まれて、エリートになるわけや。そういう状況で、深く理解し合えるお互いへの強い感情が生まれるとすると?」
「え、じゃあ普通に恋愛感情だと?」
「そうや」
「それじゃ、ああいう歌はガチだと思っていいわけ?」
「ガチのBLや!」
「ちょっと、路上で大声でいうことじゃないから、それ」
「そうやった。しかし九条兼実も日記に書いとるやろ。これぞまさしく君臣合体ってな」
「だからさ、真昼間に大声で叫ぶことじゃないから。生々しすぎる」
「そうやった。ようするに、そういうことや」
そうなのか。ガチなのか。
家持くんが「はしきやし」って言った久須麻呂くんとの関係も、ガチなのか……。
まあ、慎重に読んでいこう。(´・ω・`)