湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

真昼の古代歌謡

 

以前の記事で引用した、大友家持の歌が気になっている。

 

夢のごと 思ほゆるかも はしきやし 君が使の 数多く通へば

(万葉集 巻4 787)

 


久須麻呂くん(藤原久須麻呂、藤原仲麻呂の息子)の使いがしょっちゅう来ることに対して家持くんが「夢のように思えるよ」「はしきやし」と、心情を述べているのであるが、この「はしきやし」の意味をどう取るかで、この一連の相聞の歌のニュアンスは、かなり変わってしまうのである。

 

前回も書いたように、辞書では、「はしきやし」は、形容詞「愛し」に、間投助詞「やし」がくっついたものということになっている。

 


はしきやし【愛しきやし】[連語]《ヤシは間投助詞》


いとしい。愛すべき。「ああ」という嘆息の語とほとんど同義になる例が多い。亡くなったものを愛惜し、また自己に対して嘆息する意に多くつかう。はしきよし。はしけやし。

 


「はしきやし」は、万葉集を粗忽に眺めたところでは、会いたいのになかなか会えない「妹」や、早死にしてしまった愛妻を思う歌によく使われているようだ。辞書に「愛惜」という記述があるのは、そのためと思われる。


さて、家持くんの歌の「はしきやし」を、そのようにストレートかつ哀切な「いとしい」であると考えると、BL街道一直線な歌のようで、どうも屈折した面白みにかける気がする。

 

幼い娘の縁談話の絡んだ前後の歌の状況から見ても、「夢のごと思ほゆるかも」という家持くんの心のうちにあるのは、「ああ、久須麻呂くん(の使い)が、いとしい」であるとは考えにくい。BL街道一直線は、この際、無しの方向で考えたい。


二人の間柄は、もっと微妙なものではないか。
というか、微妙であってほしいという私の願望に基づいて、この場合の「はしきやし」の意味を考えてみたい。


久須麻呂くんの使いがしょっちゅうくることは、家持くんにとっては、「夢のよう」なことだという。


万葉集歌人の「夢」に対する思いは、現代日本人の感覚とはだいぶ違う。彼らにとって、恋しい人を夢に見るということは、現実にその人に会うことに匹敵するほど、深い意味を持っていた。恋しい人が自分の夢に出るのは、その人が自分を思っている証だという捉え方さえあるほどである。


これは私の空想でしかないのだが、家持くんは、もしかしたら、久須麻呂くんの使いが自分のところに通うのを、ひそかに「夢見て」いたのではあるまいか。それは、家持くんが心に秘めた痛切な願いであったかもしれないし、あるいは、無意識に近い領域で予期していたことであるのかもしれない。


いずれにせよ、「夢」の領域にあったはずの光景が、現実に目の前に出現しているのを見て、つい、これも夢ではないかと思ってしまった。そんな内心の動揺に対して、あるいは夢の領域で、久須麻呂くんの使いの来訪を思い描いていた自分の純情に対して、ふと、「はしきやし」という言葉が、こぼれでたのかもしれない。


「あーあ、しょーがねーな、俺って」


そんなところではないのだろうか。

この解釈だと、岩波古語の「自己に対して嘆息する意」という記述に当たる例ということになるだろうか。

 

似たような用例がないかと思って探していたら、いとしい女性以外の人に向けられた「はしきやし」を、「古事記」で見つけた。

 

日本武尊(やまとたける)が死の間際に詠んだ歌である。

 

波斯祁夜斯 和岐幣能迦多用 久毛韋多知久母

はしけやし わぎへのかたよ くもゐたちくも  (古事記)

 

 


やけに短いこの歌は、「片歌」という形式で、本来は、もう一つこの形のものと組み合わせられることで完成品となるらしい。つまりこのままだと、形式としては未完ということになる。


「はしけやし」の「はしけ(愛しけ)」は、「はし(愛し)」の連体形の古い形なんだそうである。


日本思想大系「古事記」(岩波書店)では、この「はしけやし」を、「ああ、なつかしい」と訳している。なつかしい我が家。それでも意味は通るけど、ちょっとつまんないというか、もう少し含むものがあるように思える。

 

この片歌のあと、瀕死の日本武尊は、もう一つ歌を詠んでいる。こちらのうたはもう少し長いけれど、断片的な印象は否めない。

 

袁登賣能 登許能辨爾 和賀淤岐斯
  都流岐能多知 曾能多知波夜

をとめの とこのべに わがおきし 
     つるぎのたち そのたちはや  (古事記)

 

 

 


    《強引に二首まとめて意訳》


 俺、もう、ダメなんだろうな。
 意識が次第に遠のいてくる。

 捨石みたいに戦に出されて、
 ここまでしぶとく生き抜いてきたけれど、
 悪運は、尽きたらしい。

 もう二度と帰ることのない俺の家のほうから、
 雲が立ち上っている。
 なんか変な雲だな。
 こっちに来るのか?


         (短時間、意識不明)


 あれ?
 
 ああそうだ。
 俺死んだら、
 あの女、泣くかな。
 なんかもう、
 顔も思い出せないけど。
 最後にあいつに会ったとき、
 ベッド脇に刀を置いてきちまったのが、
 妙に心残りになっている。

 なんか、変な女だったよな。
 あの刀、あいつ、どうしたかな。

 俺の、刀。
 かたな・・・・。


        (臨終)

 

 

 

彼が人生の最後に強く求めたのは、「我が家」だったのか「乙女」だったのか、それとも「太刀」だったのか、ちょっと微妙なところである。意識が朦朧として、焦点がさだまらなかったのだろうか。あるいは、走馬灯のように「我が家」と「乙女」と「太刀」とが、脳裏をよぎっていったのか。


こうして見てくると「はしきやし(はしけやし)」という言葉は、歌を詠むひとの抱える複雑な様相の思いや、ため息にしかならないような心の動きまで、まるごと吸い込んで、さらりと歌の表面に現れる、超吸収ポリマーのような機能を持った言葉のように思える。

逐語訳の難しい言葉だと思う。

 
日本武尊が刀を置いてきたベッドの主である女性については、また後日。

 

 

(2005年05月23日) 

 

腐女子の万葉集シリーズ

 

※他ブログに同内容の記事を掲載していましたが、今後、こちらにまとめていく予定です。

 

 

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