湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

昼下がりの万葉集 大伴家持の憂鬱

 

目次

 

初恋の人にセカンドラブ


今回は、大伴家持が大伴坂上大嬢(おおとものさかのうえのおおいらつめ)という女性に贈った歌。


まず、詞書(ことばがき)から。

 

大伴宿祢家持(おおとものすくねやかもち)の、坂上の家の大嬢(だいじょう)に贈りし歌二首 離絶すること数年にしてまた会ひて相聞往来しき

 

大伴坂上大嬢は、家持の従妹(大伴旅人の異母妹である大伴坂上郎女の娘)で、のちに正妻になった女性。


家持は、大伴坂上郎女に養育されていたらしいので、二人は幼なじみでもあったのかもしれない。十代の頃には、すでに恋の歌を贈り合っている。


彼らがなぜ数年間「離絶」していたのかは分からない。気持ちがすれ違って別れたのかもしれないし、交際を反対する人がいたのかもしれない。

 

二人が「また会ひて相聞往来」するようになる前に、家持は前妻に死なれていて、天平11年(739年)詠んだ「亡妾(ぼうしょう)を悲傷して作りし歌」が、万葉集に掲載されている。

 

相思相愛だった少女との別離を強いられ、思いを断ち切れないまま大人の事情で別の女性を妻に迎えたのに、その妻は幼い子どもを残してあっさり死んでしまった。

 

その死を深く悼みながらも、孤独な心はかつての恋人を追い求め、こんどこそ結ばれたいと思い詰め……たかどうかは分からないけれども、家持の歌にこめられた大伴坂上大嬢への思いは、半端なく重たく、暗い。

 

忘れ草 わが下紐に 着けたれど 醜の醜草 言にしありけり(727)

わすれぐさ わがしたびもに つけたれど しこのしこぐさ ことにしありけり


【普通の訳】


君のことを忘れようと思って、忘れ草を下紐に着けてみたけど、このクソ草、忘れ草とは名ばかりで、ちっとも効果がなかった。

 
「忘れ草」は萱草(かんぞう)というユリ科の植物で、家持は、これを「下紐」につけていた。


「下紐」は、腰から下に着用する衣類の紐で、一夜を共にした男女が互いの紐を結び合うことで再会を誓ったりしたらしい。恋しい相手との絆にも等しい「下紐」に、「忘れ草」を結びつけるのだから、相手への思いを断つ意図があると考えるのが自然だろう。

 

それも、単なる片思いではなく、一度は深く結ばれた相手だからこそ、その契りの記憶を断つために、あえて「下紐」に「忘れ草」を装着したのではないいだろうか。

 

忘れてしまいたいと願ったのは、彼女と結ばれる見込みが全くなかったからなのだろう。家持と大伴坂上大嬢は、いとこ同士だから、婚姻も可能のはずだけれども、よほど強硬に反対する身内でもいたのかもしれない。

 

父の旅人が亡くなったあと、家持の面倒をみて、大伴一族の家政を取り仕切っていたのは、大伴坂上大嬢の母親であり、家持の叔母でもある、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)だったという。


ずっと近くいたはずの、家持と大嬢の「離絶」は、もしかすると、この叔母の意向によるものだったのかもしれない。

 

「醜(しこ)」は、名詞の頭にくっついて、卑しめたり罵ったりする表現をつくる言葉で、現代語だと、「バカ」とか「クソ」とかに相当する感じだろうか。

 

「忘れ草」で恋心の消去を試みて失敗し、「醜の醜草(クソッたれなクソ草)」と罵る恋の歌が、万葉集にもう一首ある。

 

こちらの詠み手も悶々としているけれど、「忘れ草」の取り扱いが違っているせいか、家持ほど追い詰められた印象がない。

 

忘れ草 垣もしみみに植えたれど 醜の醜草 なほ恋ひにけり (巻十二 3062)

わすれぐさ かきもしみみに うゑたれど しこのしこぐさ なほこひにけり


【普通の訳】


忘れ草を垣根にぎっしり植えてみたけど、このクソ草、効果ゼロ。ますます悶々とするばかりだ。

 

この人は「忘れ草」を大量に栽培している。ノカンゾウと言われる種類の「忘れ草」は食用にもなるようなので、失恋のヤケクソでドカ食いしたのかもしれない。


「忘れ草」が恋心に苦しむ男たちに罵られるのは、おそらく「文選(もんぜん)」のせいだと思う。

 

文選 (書物) - Wikipedia


中国の詩文集である「文選」は、奈良時代のインテリ貴族たちにとっては必読の教養書だった。

 

その「文選」に、「萱草は憂いを忘れる効能がある(萱草忘憂)」というようなことが書いてあったせいで、恋に苦しむ貴公子たちが、「下紐」にくくりつけたり、大量栽培してオーバードーズを試みたりしたのだろうと思われる。


で、さっぱり効果がないので、「醜の醜草(しこのしこくさ)」と悪態をつくわけである。


情けないし、いささか乱暴ではあるけれど、ワイルドとチョイ悪の中間くらいを狙った貴公子なりのダンディズムと思えば、ちょっとかわいい感じがしないでもない。


もっとも、このときの家持に何かを気取ってみせる余裕があったかどうかは分からない。

 

 人もなき 国もあらぬか 我妹子と 携ひ行きて たぐひて居らむ (728)

ひともなき くにもあらぬか わぎもこと たずさひゆきて たぐひてをらむ


【普通の訳】


人のいない国がないものか。君と手をつないでそこへ行って、二人っきりで暮らしたい。

 
愛する女性を連れて誰もいない国に行きたいなどと、決して叶うことのない逃避願望を口にしたくなるほど、家持の周囲は面倒くさい状況だったのだろう。

 

坂上大嬢は、いずれは一族を率いていかなくてはならない立場の家持にとって、唯一心を許すことのできる女性だったのかもしれない。

 

(恒例の妄想意訳は、記事の最後に掲載)

 

 

家持の憂鬱な人生(略年譜)


大伴家持という人の生涯について、あまりよく知らなかったので、自分の勉強も兼ねて、大雑把に家持の年譜を作ってみた。


おおよその目安として年齢を添えてみたけれども、正確なものではない。

 

養老2年(718年)頃 家持誕生。


養老4年(720年) 隼人が薩摩で反乱を起こし、父の大伴旅人が征隼人持節大将軍として派遣される。(2歳)


神亀4年(727年) 大宰帥に任ぜられた父、大伴旅人に連れられて、筑紫に下向。すでに高齢だった旅人の九州赴任は、藤原不比等の息子たち(藤原四兄弟)による左遷人事とも言われる。(9歳) 

 

天平1年(729年) 藤原四兄弟長屋王を自殺に追い込む(長屋王の変)。(11歳)

 

幼少期から、権力闘争の嵐がびゅーびゅー吹き荒れていたようだ。

大伴氏は事が起これば大軍を指揮するような武門の家であるだけに、藤原一族からの視線も厳しいものがあったかもしれない。

 

それはともかく、「藤原四兄弟」は、それぞれにキャラが立っていて面白い。


長男・藤原武智麻呂(むちまろ)藤原南家開祖)…温厚な教養人ったらしいけど、藤原氏単独で政権を握るために長屋王を自殺に追い込んだ張本人ともいわれる。怖い兄さん。

 

次男・藤原房前(ふささき)藤原北家開祖)…切れ者で、政治力は兄より高かったらしい。この人の子孫に藤原道長が出現する。

 

三男・藤原宇合(うまかい)藤原式家開祖)…軍事面で功績を残した。頭のいいマッチョ系か。

 

四男・藤原麻呂(まろ)藤原京家開祖)…芸術と酒を愛したらしい。夢見がちの末っ子という感じか。

 

藤原戦隊ムチマロマン、とか言いたくなってくる。

 

こんな四人が力を合わせて政権を独占しようとするのだから、大伴氏も含めて、他家の人々はさぞかしやりにくかったことだろう。

 

天平2年(730年)、家持、父の大伴旅人と共に筑紫から帰京。(12歳)

天平3年(731年)大伴旅人死去。(13歳)

天平4年(732年)  この頃から家持と大伴坂上大嬢との間に歌の贈答が見られる (14歳)

 

父親の死後、母親代わりとなって自分の世話をしてくれていた叔母(坂上郎女)の娘と親しくなるのは、自然な成り行きだったかもしれない。

 

けれども、家持と大伴坂上大嬢は、数年にわたって「離絶」することになる。

若すぎるために反対されたのか、それとも何か別の理由があったのか。

 

天平6年(734年)   畿内七道地震で大きな被害が出る。

天平7年(735年) 九州で発生した天然痘が本州に広がる。

天平9年 (737年)  権勢をふるっていた藤原四兄弟天然痘で全員まとめて死亡。光明皇后の後ろ盾となった橘諸兄が権力を握る。(19歳) 

 

アクの強い藤原四兄弟は、死に方も強烈だった。

 

他の高官たちも次々と天然痘で亡くなるという、凄まじい人材枯渇状況で、光明皇后の異父兄だった橘諸兄(たちばなのもろえ)が、いきなり政治の中心に躍り出ることになる。藤原四兄弟の子どもたちは、権力の場に出るには若すぎたため、出番がなかった。

 

橘諸兄は、万葉集を編者の一人だったとも言われ、家持との交流もあったという。

ただし、収録されている歌は7首で、家持の473首と比べるとずいぶん少ない。編者としての関わり方が違っていたのかもしれない。

 

 

天平10年(738年)ごろ 家持、内舎人(うどねり)となる。(20歳)

天平11年(739年)  家持の妻が幼子を残して死亡。このころ大伴坂上大嬢との交際が再開したらしい。(21歳)

天平12年(740年) 藤原宇合(藤原四兄弟の三男)の息子、藤原広嗣が九州で反乱を起こしたけれど、鎮圧されて殺される。乱から逃れるように関東に行幸する聖武天皇に従って、家持も関東に行く。(22歳)

 

内舎人(うどねり)というのは、中務省に属する官職で、天皇の身辺警護などをする役職だったらしい。

 

聖武天皇というと、東大寺の大仏を作った天皇という印象が強いけれども、頻繁な遷都と、突発的な関東行幸も行っていたという。大地震天然痘の大流行、藤原四兄弟の専横と消滅、藤原ジュニアの反乱など、次々と起きるストレスフルな事件のせいで、逃避願望が強まっていたのかもしれない。内舎人だった家持も、さぞかし気苦労が多かったのではなかろうか。

 

そんな世情に振り回されて、妻にまで死なれてしまった家持が、心を支えてくれる恋人を求めて、「人もなき 国もあらぬか」と言いたくなるのも、分かる気がする。

 

天平18年(746年) 家持、越中守に任ぜられて地方官に転じる。弟の大伴書持死去 (28歳)

天平21年(749年) 家持、従五位上に昇叙される。大帳使として一時帰京し、妻の大嬢と一緒に越中に戻ったらしい。 (31歳)

 

家持は、身内と別離しやすい人のようだ。

大伴坂上大嬢と結ばれたものの、国司として越中に単身赴任することになり、その直後に弟に死なれてしまう。越中では、なんだかヤケクソのようにたくさんの歌を詠んでいる。

 

天平勝宝元年(749年)孝謙天皇が即位。天皇の母の甥である藤原仲麻呂が権勢を強め、橘諸兄と対立を深める。

天平勝宝3年(751年)家持、少納言に任ぜられて帰京   (33歳)


天平勝宝7歳(755年)家持、難波で防人の検校に関わる。これがのちに防人歌を収集するきっかけとなる。  (37歳)


天平勝宝9歳(757年)家持、兵部省の次官を務める。 (39歳)


天平宝字元年(757年)橘諸兄、死去。その後、藤原仲麻呂の殺害を謀ったとして、橘諸兄の息子である橘奈良麻呂、家持と歌をたくさん詠みあった大伴池主、従兄の大伴古麻呂などが、拷問で撲殺される。(39歳)

 

藤原戦隊ムチマロマン、ではなくて、藤原武智麻呂の息子である仲麻呂が、橘諸兄を蹴落として権勢をふるうようになる過程で、大伴氏の勢力も容赦なく削られていくけれども、家持は巻き込まれずに生き延びる。

 

天平宝字2年(758年)家持、因幡守に任ぜられ再び地方官に転出。(40歳)

 

天平宝字3年(759年)家持、正月に因幡国国府で『万葉集』の最後の和歌を詠んだ。この年に万葉集を編纂したか。(41歳)

 

天平宝字6年(762年) 藤原宿奈麻呂と一緒に藤原仲麻呂暗殺を計画するものの、密告で露見。共謀した藤原宿奈麻呂が単独犯行を主張したため、家持は罪に問われなかった。(44歳)


天平宝字8年(764年)家持、薩摩守へ左遷される。仲麻呂暗殺計画の報復人事か。 (46歳)

 

天平宝字8年(764年) 藤原仲麻呂が乱を起こして殺される。

 

家持と一緒に仲麻呂暗殺を計画した、藤原宿奈麻呂(良継)、藤原四兄弟の三男である宇合(うまかい)の息子。聖武天皇行幸しまくる原因となる乱を起こした藤原広嗣の弟でもある。

 

暗殺計画に関わったとされているのに、罪に問われずに済んでしまうのは、運のよさだけではないのだろう。

 

その上、家持が薩摩に左遷されている間に、藤原仲麻呂は、自分と対立していた孝謙天皇道鏡(巨根説で有名だけど真偽不明)を倒すために乱を起こし、一族郎党ほとんど自爆みたいな形で滅びてしまう。家持と歌を贈り合っていた、仲麻呂の息子の藤原久須麻呂も死亡する。

 

↓ 家持と藤原久須麻呂の歌のやりとりについての記事

dakkimaru.hatenablog.com

 

 

天応2年(782年) 氷上川継のクーデター計画への関与を疑われて、解官されるけれども、すぐに復位する。(64歳)


延暦3年(784年) 征夷大将軍になる。(66歳)


延暦4年(785年) 死去。

 

延暦4年(785年藤原種継暗殺事件に関与したとして、官位剥奪され、埋葬も不許可となる。

 

延暦25年(806年) 恩赦で従三位に戻される。

 

 


家持の人生は、幼いころから亡くなったあとまで、常に藤原一族の絡んだ権力闘争の暴風域に置かれていたようだ。

 

かなりきわどい局面もあったのに、家持は政敵による社会的抹殺をまぬがれて、生き延びていく。うまく身をかわしたのかもしれないし、守ってくれる人々に恵まれたのかもしれない。いずれにせよ、胃の痛くなりそうな人生だと思う。

 

大伴坂上大嬢が、いつごろまで家持のそばにいたのかは分からない。

 

二人の間には子どもがいなかったようだ。

地方への赴任のために別居していた時期が長かったためかもしれないけれども、もしかすると、大伴坂上大嬢も、家持を残して早くに亡くなってしまったのかもれしない。

 

 

 


【意訳というより、もはや妄想】

 

最後に手をつないだあの日から、もう何年になるのかな。

いろいろありすぎて、何から話していいのか、わからない。

 

誰も彼もクソみたいな世の中に振り回されて、大事なものを奪われていく。

僕らの仲を許さなかった人だって、それで何かを守れたわけじゃなかっただろうし。

 

あ、そうだ。ノカンゾウのストラップって、見たことあるかな。

あれを流行らせたのは、僕なんだ。

 

ノカンゾウは、別名「忘れ草」って言ってね、憂鬱な気分を晴らしてくれる効能があるって本に書いてあったから、君が最後の夜に結んでくれたアンダーウエアの紐にぶらさげていたら、まわりの非モテ連中がマネしはじめたんだ。

 

だけど、片思いの失恋くらいで悩んでいられるのはシアワセだと思うよ。
皮肉じゃなくて、本気でうらやましいと思う。


君じゃない女性を妻を迎えて、子どもが生まれても、ずっと君を思って苦しかった。忘れ草なんか、いくら結んだって、忘れられるはずもない。

 

周囲の目を気にして、君のことをすっかり忘れたみたいにふるまわなくちゃならないなんて、馬鹿げてるとしか思えない。


感情にフタをして、「記憶にありません」って言っていれば、クソみたいな状況に巻き込まれずにすむっていうのは、わかるんだけどね。

 

でも、そんな処世術だけで、この先ずっと大切なものを守りきれるとは思えないんだよ。

 

僕もいずれ父のように、遠い国に赴任することになるんだろう。

 

誰ももいない国って、ないのかな。

反乱を起こす物騒な連中とか、どこぞの偉いフジワラさんたちとか、君のママとか、面倒くさい人が誰もいない国。


君と手をつないで、そこに行って、ずっと一緒に暮らすんだ。 いまだけ、そんな夢を見させてほしい。