ふと、万葉集を最後の方から読んでみようと思い立って、読み始めた。
読んだらメモを取らないと忘れてしまうので、順番に書いてみることにした。
というわけで、今日は万葉集(岩波文庫版)の最後に載っている、天平宝字三年(759年)の正月に、大伴家持が詠んだ歌について、メモ書きする。
三年の春正月一日、因幡国国庁に於いて、饗を国郡の司らに賜ひて宴せし歌一首
新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事
(あたらしき としのはじめの はつはるの きょうふるゆきの いやしけよごと)
右の一首は守大伴家持の作りしものなり。
(萬葉集巻第二十 4516)
「因幡国」の「国庁」は、鳥取県鳥取市の国府町にあったのだそうだ。
「国庁」は、国司が政務を行った役所のこと。
家持は、この歌を詠んだ前年に、因幡守(国司)に任命されて赴任してきていた。
年が改まったので、元日の公式行事として、部下たちや、地元の郡司たちを集めて宴会を開いた。これはその時の歌だという。
岩波文庫版では、次のような現代語訳を載せている。
新しい歳の初めの正月の今日降る雪のように、ますます重なってくれ、良いことが。
まるっきり、仕事始めの日の偉い人のスピーチの締めの言葉みたいだ。
実際そういう意味合いの歌ではあったのだろう。
新年の降雪は、古代人にとっては豊年の瑞祥だったのだそうで、古くは雄略天皇や舒明天皇にも、そのような意図の歌があるのだという。
家持も、そういう伝統を意識して「今日降る雪のいやしけ吉事」と詠ったのだろう。
だけどこの歌、どうもちょっと変だと思う。
「新しき年の初め」「初春」「今日」。
家持は、なんでこんなにヤケクソみたいに季節や日時に関連する言葉を詰め込んだのか。
この歌を読んで思い出した歌がある。
柿本人麻呂の「あしひきの」の歌。
あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む(柿本人麻呂)
【くだくだしさを踏まえたインチキ意訳】
足引きずってだらだらと山登りする時の、終わりの見えないうんざり感。
そんな山で、しっぽがだらだら長い山鳥に出くわして、「チッ!」とか鳴かれた時の、意味不明なげんなり感。
彼女と寝れば腹立つほど短いくせに、一人で寝るとクソ長い夜。
あーあ。
することないし。なんか腹減ってきた。
あのムカつく山鳥、こんど見かけたら、絶対焼き鳥にしてやる。
柿本人麻呂は、長いものを歌の中に積み上げながら、長々しい夜のうんざり感を盛り上げ、一人寝の侘しさを強調していた。
家持も、もしかしたら降りしきる元日の雪に思うところがあったのじゃなかろうか。
【勝手な想像でひねり出した意訳】
えー、新年明けましておめでとうございます。昨年赴任いたしました、国司の大伴家持です。
本日は、この雪深いなかを、因幡の国の行政官の皆様にお集まりいただき、感謝の念に堪えません。
いやほんと、こんなドカ雪の日に宴会で役所に召集とか、マジ勘弁しろよと思った方々も、きっといらっしゃることでしょう。私もです。
でもこれ、法律で決まってる行事なんですよね。元日に国庁に向かって朝拝しろって。
で、皆さんに挨拶してもらってから、宴会でご馳走食べて盛り上がるまでが、恐れ多くも帝の思し召しなわけで、勝手に延期とかしちゃうと、私も皆さんも立場的にヤバいわけですよ、いろいろと。
でもって、今日って立春でしょ?
どこが春だよって言いたいくらい雪降ってますけどね。
元日で、しかも立春。
二重にめでたい日にぶち当たった公式行事を延期したなんてことが中央にバレて、しかも米が不作だったりした日には、首が何個飛ぶかわかったもんじゃないですから。
しっかし、よく降るよね。
馬も埋まる勢いだな。
あー、これ、今日集まった全員、帰宅困難なんじゃない?
まあ酒も食べ物もたくさんあるから、なんとかなるかな。
新年早々国庁に泊まり込みとか、笑うしかないよね。もうここで埋まっちゃおうか。真っ白に後腐れなく。うん、冗談だけど。
まあ豪雪の年はたいてい豊年だっていいますし、こいつぁ春から縁起がいいわいって思っときゃいいんでしょうね。
てなわけで、皆さん、雪とか都のこととか気にせずに、大いに飲んで食べましょう!
ドカ雪と同じくらい、世の中にいい事がいっぱいありますように!
いい事は、あまりなかったかもしれない。
歌を詠んだ759年前後の出来事を拾ってみた。
756年、橘諸兄、失脚。翌年死去。
757年、橘奈良麻呂(諸兄の息子)の乱。奈良麻呂は拷問死したらしい。家持は無関係とされたけど、大伴の一族の者が多数処罰された。
759年 家持、元日に国庁で万葉集の最後の歌を詠む。
762年、家持、都に戻る。
763年、藤原宿奈麻呂・石上宅嗣・佐伯今毛人、家持の4人で企てた、藤原仲麻呂暗殺計画が露見。
764年、家持、報復人事として薩摩守に任ぜられる。
……
どう考えても、この時期の家持が心穏やかに暮らせたとは思えない。
家持の最後の歌が、万葉集の最後に掲載された理由は分からないけれども、いろいろな人の思いや事情が絡んでいるのだろう。