【目次】
大伴家持が吉田連老に送った歌
痩せたる人を嗤笑(わら)ひし歌二首
石麻呂に我物申す夏痩せに良しといふものそ鰻捕り食(め)せ (3853)
痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を捕ると川に流るな (3854)
右、吉田連老、字を石麻呂と曰ふもの有りき。所謂(いわゆる)仁敬(じんけい)の子(ひと)なり。その老、人と為り身体甚だ痩せ、多く喫(くら)ひ飲むと雖も形は飢饉するに似たり。これに因りて、大伴宿禰家持、聊かにこの歌を作り、以て戯咲を為ししものなり。
【意訳】
石麻呂に申し上げる。夏痩せに効くというウナギを捕ってお食べなさいませ。(3853)
痩せすぎても生きてりゃいいけど、ウナギを捕りにいって川で流されるなよ。(3854)
吉田連老、字(あざな)を石麻呂という者がいた。世にいうところ仁敬の子であった。彼は生まれつき大変にスリムな体形で、いくら飲食しても飢えに苦しむ人のようであった。そこで大伴家持が、ちょっとこんな歌を作って、石麻呂をからかったのだった。
※めす【食す】……「食う」の尊敬語。
※はたやはた【将や将】……ひょっとして。もしや。万が一。
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吉田連老と吉田連宜
万葉グルメシリーズが書きたいのに、なかなか書けずにいる。
今回の歌には、ウナギが出てくるけれど、食べた話ではない。
作者の家持が、石麻呂という痩せすぎの男性に、ウナギを自分で捕獲して食べることを勧めているだけである。しかもマジメな忠告ではない。「痩せたる人を嗤笑う」とタイトルにあるように、相手をおちょくって詠んでいる。
多分、親しい間柄なのだろうけど、かなり冗談がキツい。
茅花の歌での紀女郎とのやりとりにも悪ノリしている気配があった。
家持という人、決して「まじめ一辺倒」というタイプではなさそうである。
おちょくった歌を贈られた吉田連老(石麻呂)という人の詳しいプロフィールが分からない。
歌の雰囲気から、同世代の遊び仲間という印象だけど、「所謂仁敬の子(ひと)なり」というのが気になる。
岩波文庫版の「万葉集」では、「仁敬」について、漢籍を引いているだけで、意味を説明していない。
「仁敬」は「君、仁敬なれば即ち時雨これに従ふ」(尚書洪範休聚・雨)とある。
「尚書」は儒教の経典である五経のうちの一つである「書経」のことで、「洪範」はそのなかの一篇だそうだ。民を治める君主が「仁敬」であれば、時雨も従うというのだから、「仁敬」は徳の高いことを言っているのだと思う。
「仁」は愛情深いこと、「敬」は慎み深く相手に礼を尽くすこと。
石麻呂は、ずいぶん立派なお人柄だったようだ。
この吉田連老(石麻呂)の関係者と思われる、吉田連宜という人物が同時代に存在している。
吉田連宜は、百済からの渡来僧だったけれど、医術に優れていたために還俗して吉宜(きちのよろし)という名前になり、神亀元年(724年)には吉田連に改姓し、天平10年(738年)には典薬頭(てんやくりょう/くすりのつかさ)になったという。(Wikipediaによる)
家持は 養老2年(718年)ごろの生まれなので、吉田連宜は家持よりも一世代以上年上ということになる。
吉田連老(石麻呂)が吉田連宜の息子だとすれば、ちょうど家持と同世代だった可能性が出てくる。
吉田連宜は家持の父である大伴旅人とも親交があったようで、筑紫に赴任している旅人への熱烈な思慕を込めた手紙と歌が万葉集に掲載されている。手紙の一部と歌を一首、引用してみる。
宜が主に恋ふる誠、誠は犬馬に逾(こ)え、徳を仰ぐ心、心は葵藿(きくわく)に同じ。
【意訳】この私、宜めが、ご主人様を恋しく思う真心、その誠の心は犬や馬が飼い主に抱く忠誠心をはるかに超えるものであり、ご主人様の人徳を仰ぎ見る思い、その心情は葵や豆の葉が太陽を恋い慕うのと等しいのです。
※藿……豆の葉
後れゐて長恋せずはみ園の梅の花にもならましものを (864)
【意訳】愛しいご主人様が催された梅の花を愛でる宴会に参加することもできず、奈良の都に居残りをして恋しい恋しいと思い続けているくらいでしたら、いっそのこと、ご主人様のお庭に咲く梅の花になってしまいたいものを。
864の歌で、吉田連宜が参加できなかった梅の花を愛でる宴会というのは、「令和」という元号の出典になった詞書「初春の令月、気淑しく風和らぐ」の歌会のこと。
晩年の筑紫赴任で望郷の念にかられる旅人をなぐさめるための手紙だったようだけど、吉田連宜の恋慕の情が熱すぎて、いったい二人はどういった関係だったのか、かなり気になる。
宜の手紙と歌が、筑紫の旅人の元に送られたのは、たぶん天平2年(730年)ごろのことで、この年の終わりごろに、旅人は帰京するのだけど、翌天平3年(731年)には、病気のために亡くなってしまう。
おそらく吉田連宜も旅人の治療に関わっただろうし、まだ幼かった息子の家持と出会う機会もあったかもしれない。
吉田連宜には吉田古麻呂という息子がいて、この人も医師になっている。
生没年は不明だけれど、天応元年(781年)に従五位下となり、延暦3年(784年)には、皇室の診察と薬の処方を行う内薬正(内薬司のトップ)になっている。家持と同世代だと考えると、60代ぐらいでその地位を得たことになる。
この吉田古麻呂が、家持のお友達の吉田連老(石麻呂)だったのじゃなかろうか。
古麻呂と石麻呂。字面が似ている。
「古」と「老」も、意味が近い。
父親が優秀で、(旅人限定かもしれないけど)恐ろしく情の厚い医師だったのだから、そのあとを継いで医師になった息子が「所謂仁敬の子なり」といわれるような人物に育ったとしても、不思議ではない。
痩せていた理由
なんで痩せていたのかは分からない。
いくら食べても「形は飢饉するに似たり」というのは、かなり不自然だ。
ひょっとしたら、回虫持ちだったのじゃなかろうか。
飛鳥時代の藤原京の便所の遺構を発掘したところ、豚肉から感染する有鉤条虫(ゆうこうじょうちゅう)という寄生虫の卵が見つかったという。
奈良時代には豚や鶏などが食用として飼育されていたけれども、仏教が広まるにつれて、食肉が禁忌となり、狩猟や肉食の禁止令が何度も出されたらしい。
けれども、何度も禁止するということは、取り締まっても食べる人が絶えなかったということだろう。
また肉食禁止令は渡来系の官吏や貴族を牽制するためとする説もあるという。(Wikipedia「日本の獣肉食の歴史」より)
吉田連の人々は渡来系である。
痩せ過ぎの友人にウナギを勧めた家持は、そのあたりに、何か思うところがあったのかもしれない。
《意訳とは名ばかりの何か》
謹啓 猛暑の候、石麻呂先生におかれましては、恙(つつが)無くお過ごしでございましょうか。
いや、さっき会ったばっかりだけど、お前があんまり痩せてて驚いたから、これ書いてる。
まるっきり餓鬼道におっこちた亡者じゃん。誇張なしで。
健啖家のお前が何をどうしたらそこまで痩せるわけ?
元気に働いてるんだから大丈夫なんだとは思うけど、見た目がヤバすぎる。
もうちょっと肉をつけたほうがいいと思うぞ。
あ、肉は元から好物だろうけど、もうちょっと別のもんを食ってみるとか。
脂ののったウナギとか、お勧めだな。
川に行って自分で捕ってくれば、運動にもなるし、一石二鳥だろ。
あーでも、今のお前だと、ウナギと一緒に川に流されそうで心配だな。
一緒に行くか。
痩せててもいいけど、長生きしてくれよ。
(2005年06月14日に書いたものを手直ししています)