前回の日記で、額田王の歌の解釈について疑問に思うという話を書いた。
↓前回の日記
冬ごもり春さりくれば 鳴かざりし鳥も来鳴きぬ 咲かざりし花も咲けれど 山を茂み入りても取らず 草深み取りても見ず 秋山の木の葉を見ては 黄葉をば取りてぞしぬぶ 青きをばおきてぞなげく そこしうらめし 秋山吾は (万葉集 巻一 16)
私の疑問は、「冬ごもり春さりくれば」の部分が、なぜ「冬が過ぎて、春が来れば」と解釈できるのか、ということ。「冬ごもり」は、冬に活動を控えて「こもる」ことだから、冬の真っ最中のはずである。つまり「過ぎて」いない。
そして、「春さりくれば」なんて言われたら、春が去ったんだか来たんだか分からない。矛盾したような、不思議な表現である。
というわけで、古典語の専門家(亭主)に質問したところ、回答がきたのだけど、亭主の回答はあまりにも素っ気なくてわかりにくいので、てきとーに調べて補って書いてみる。
まず、「冬ごもり【冬籠】」について。
冬の寒い時期に動植物が活動を控えること、また人が家に引きこもること(小学館「古語大辞典」中田祝夫監修を参照した)という意味だけれど、その引きこもった時期の次には、生き物が一斉に生育し、活動する春がやってくる。
だから「冬ごもり春さりくれば」と歌われるときの、「冬ごもり」には、春を迎える準備期間、エネルギー蓄積のために「こもる」時であるという意味が込められていると考えられる。
たとえば、次の歌では、その対比がわかりやすく表されている。
*古今和歌集〔905〜914〕仮名序
この歌を記した木簡(7世紀のものらしい)が各地で発見されているそうで、古今集の成立(10世紀)よりも、だいぶ古い歌であるのは確か。
ウィキペディアの記事によると、応神天皇の崩御後、菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)と大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)が互いに皇位を譲り合ったため、3年間も空位となっていたが、のちに難波高津宮において大鷦鷯尊が即位して仁徳天皇となった際、その治世の繁栄を願って、王仁という渡来人によって詠まれた歌とされているそうだ。
天皇が空位のままだった時期を、長い「冬ごもり」と見立てて、新たな天皇の即位を花咲き乱れる春のように晴れやかで喜ばしいものとしたのだろうか。
ほんとうに仁徳天皇の即位のときに詠まれたものだとすれば、額田王の歌よりも成立が古ということになるのだろうけど、真実は分からない。でも、広く知られ、歌われていたというのだから、「冬ごもり春さりくれば」と歌ったときの額田王の意識のなかにも、「天皇の即位=花咲き誇る春」という図式とともに、この歌が浮かんでいたかもしれない。
そうだとすると、額田王が「春」よりも「秋」を選んだ理由が、なおさら意味深く思われてくる(邪推とも言う)。
二人の男性の間で心揺れているだけでなく、全盛期を迎えて最高位にある人ではなく、はかなくも美しく衰えていきそうな人を選びたい、という意味も込められていたりしないかな、と。
なかなか難しい女性である。
なにはともあれ、歌の世界での「冬ごもり」は、春を強く意識した状態であり、表面上は動きを見せないけれども、実は来たるべき春に備えるための時期であるという意味している可能性がある。そういう意味合いをすっとばして、「冬が過ぎて」と解釈してしまうと、歌の歌の奥深さを見逃してしまう。
んで、次に「春さりくれば」。
「さりく(去来)」は、動詞「去る」と「来」が合体したもの。
「さる」という動詞は、現代では、ある場所(起点)から離れてしまって、そこにいなくなるという意味で使われている。行き先(着点)がどこであるかは、問われない。
けれども額田王の歌「春さりくれば」では、春はいまここ(着点)に来ている。来るためには、どこか(起点)を離れなくてはならないけれど、どこから来たかは問われない。
あべこべの意味のようだけれど、「あったものがいなくなる」ことも、「いなかったものがあらわれる」ことも、状態が変化するという点では共通している。
そして、「さりく(去来)」という(複合)動詞は、「春」「秋」「夕」「夜」など、無限に反復される季節や時間帯に限定して使われているようだ(万葉集くらいしか確認していないし全例見ていないので断言できないのが悲しい…)。
それらは、何度でも去るけれども、何度でもまた同じようにやってくるのだ。
古典語の「去り来」の「去る」は、そういう時空の反復的な変化そのものに焦点を当てているように思える。
もらった回答の何倍も補ってしまった。
書き足りないけど、きりがないからここでやめる。
いつもの健康観察日記とかは、また別に書くことにする。
あーつかれた。
今日引いた紙の辞書。