こんにちは。
昨日描いたラクガキ。
タイトルは、「血液の見る夢」←(いま考えた)
今日の健康
朝起きて全身痛いのは、相変わらず。
でも体力ゲージが少し上がってきたようで、その後の行動は比較的スムーズにできた。
日曜日なので、末っ子と一緒に教会学校へ。
教会に行くときは、いつも不思議なほど体調がいい。
でも教会から出て買い物している間に、きっちり体力が切れた。これもいつものことだ。
クリスマスと聖書と言語障害
教会学校では、12月に入ってから、イエス・キリストが生まれるころの福音書のお話が続いている。
末っ子と一緒に教会に通い始めて、三年になる。年を重ねるごとに、聖書についての知識が増えているためか、同じ福音書の箇所を読んでいても、毎年少しづつ、見える景色が違ってきているように感じる。
今日は、ルカによる福音書で、バプテスマのヨハネが誕生したところについてだった。
ヨハネの両親は、子を持つことを心から願っていたのに、授からないまま老齢になってしまった人たちだった。
ところが、夫ザカリヤの前に、神の御使いのガブリエルがいきなり出現し、
「あなたの妻エリザベツは男の子を産むであろう」
と言った。
ザカリヤがガブリエルの言葉をにわかに信じることができないでいると、その不信の代償として、ガブリエルは、ザカリヤの発語能力を一時的に奪ってしまう。御使いも、結構乱暴である。
突然喋れなくなってしまったザカリヤをみた周囲の人々は、彼が幻を見たのだと思ったというが、なかには脳梗塞などの病気になったと思った人たちもいたかもしれない。そういう脳神経系の症状の老人は、2000年前にだって、きっといたはずだから。
ザカリヤとエリザベツが、そのとき何歳くらいだったのかは、書かれていないのでわからないけれども、少なくともザカリヤは、願いが叶わないことに慣れきってしまう程度には、心身ともに年老いていたのだろう。
ザカリヤでなくても、実現困難な願いを諦めずに、希望を抱き続けることは、難しい。落胆することを恐れ、薄暗い諦めに慣れてしまうと、思いがけず人生に光が射したときに、心がついていかずに、暗い場所に留まろうとするようなことも、わりとよくあることだろう。
諦めの薄暗がりには、心身の老いや病が繁茂しやすいことは、体験上よく知っている。御使いガブリエルは、それを強制発動してみせたのかもしれない。
ザカリヤは、エリザベツが無事に出産を終えた八日後、息子の割礼と命名を行うときに、突如として言語障害から解放され、活気に溢れる言葉を取り戻すことになる。
生まれたばかりの我が子に釣り合うように、若々しい父親になったかのようにも思える場面である。
前にヨハネの誕生について習ったときは、あまり深く考えずに、エリザベツさん、初産の高齢出産、大変だったろうなと思ったくらいだった。私自身、四十代で三人目を出産していて、しかも大難産だったので、その大変さはよく知っている。医療の進んだ現代でもリスクは高いのだ。
携帯アプリからだと目次つくれない件
見出しの通りである。(´・ω・`)
昨日せっかく、無料のはてなアプリでもエントリーに目次を簡単に入れられると知ったのに、アプリにはそのコマンドがないのだった。しかたない。パソコン立ち上げられたら、改めて目次を入れよう。