おはようございます。
この絵は土台が写真で、たしか市役所だったような気がするのだけど、原型をほとんど留めていないので、さだかではない。
息子が特別支援学校に通っていた頃、ちょっとした事情が生じて、登校時の学バスの利用をやめることになり、私が車で送っていくようになった。
毎朝の通学に付き添うことは、いまよりだいぶ若かった、当時の私にとっても、それなりの負担だった。
学校までの距離は、10キロほどだったけど、早朝の車道は混んでいるので、40分ほどかかった。往復だと1時間半になる。
生徒たちや学バスの出入りのある時間帯だったから、学校の駐車場に乗り入れることは遠慮して、700メートル離れたところにある市役所の無料駐車場に車を止めて、そこから徒歩で学校に向かった。たいした距離ではないけれど、足腰が痛いときには永遠に昇降口にたどり着けないような気がしたものだ。
歩行中は、とにかく痛みから気を紛らわしたくて、横を歩く息子にいろんなことを話しかけたり(大半はスルーされ、まれにオウム返しされる)、目に入る風景を写真に撮ったりした。
と書いていたら、iPhoneがすごい誤変換をしてくれた。
王蟲返し……
そんなもんが返ってきたら、大海嘯である。(風の谷のナウシカ参照のこと)
王蟲なんかが辞書に入ってるのもすごい。
話がヨレた。
で、息子を学校に送り届けたあと、車を止めた市役所に戻り、自販機で飲み物を買って、少し休んでから、運転して帰宅するようにしていた。
その休憩時間に、その日撮影した写真を加工して、上に貼り付けたような絵にするのが、当時の楽しみの一つだったのだ。
学バスを利用できなくなったのは、バスを待っている間の人間関係が、私の手に余るものになったからだった。同じバスにお子さんを乗せる保護者のなかに、どういうわけか自閉症児を猛烈に毛嫌いする人がいたのだ。ほかにも人がいるときには穏やかなのに、私と二人になるタイミングがあると、とんでもないことを言い出すのだ。曰く、
「自閉症の人なんか、就労したってどうせ早死にするんだから、意味がない」
「うちの子と同じところに、自閉症がこないでほしい」
私の息子が自閉症であることは、当然知っていて、にこやかに微笑みながら言うのである。
一応言語研究を志していたことがあるので、皮肉や当てこすり、嫌味などといった、会話上のレトリックが、どういう意味機能の構造を持つものであるかということは、それなりに理解している。
ただ、対処の方法が分からない。
私は嫌味や皮肉というレトリックが大嫌いなので、同じやり方で返すということはあり得ない。
そして、にこやかに皮肉をいう人に対して、ストレートに怒りや抗議を表明すると、社会的には怒ったほうが悪者にされるということも、体験上よく知っている。だから、怒らない。
そして不運なことに、私は、言われた言葉を額面通り受け止めて強烈にイメージ喚起してしまうという、自閉症系の特性を持っている。「自閉症者が就労してもすぐ死ぬ」などと言われると、息子が死んでしまう光景が脳内にリアルに展開されて、夜も眠れなくなってしまうのだ。
頻度は多くはないものの、数年にわたって、そういうことを言われ続け、黙って聞いているという状況を続けるうちに、その人の顔を見ただけで、条件反射的に、とんでもなく具合が悪くなってしまうようになった。
で、もう無理だと思い、それまでその人に言われた言葉を、言われた日付の順番に整理して印刷し(全てメモってあった)、学校に提出して、学バスの利用をやめさせてもらった。
私にとっては、精一杯の「王蟲返し」だったと言える。
その人には、その後も時折道で出会うたびに、あたかも最愛の旧友にでも出会ったかのような感動の身振りで挨拶され続けていたけど、数年間既読スルーに準じる方法(無視ともいう)で応対していたところ、最近では私の姿が目に入らなくなったようで、挨拶行動も起きなくなった。
人類は平和を取り戻した。