大掃除をしていたら、学生時代の研究発表レジュメが出てきた。あまりにも阿呆な内容に頭痛がしたので、敢えて筆誅を加えて晒し、今年の締めくくりとする。
用例に「温泉」が多出するのは、研究室の友人たちと温泉に出かけた後で、浮かれていたからだろうと思われる。山形の銀山温泉、旅館のご飯、美味しかったなあ…
206回 ◯◯研究会発表資料 1988年某月某日
「と思う」のモダリティ表現としての性格
1. はじめに
文の意味構造を、次の二つに分けて考えることがよく行われる。
「客体界を反映する部分」
(素材・叙述、命題内容・コト ・詞など)
「話し手の述べる態度にかかわる部分」
(陳述・モダリティ・ムード・辞など)
けれども、実際に文を分析しようとしても、迷いを感じることが多い。
① 温泉は混んでいるだろう。
② 温泉は混んでいると思う。
深く考えずに比較すれば、①と②は共に話し手の推量したことを述べる文であり、ほぼ同じ意味内容を有していると考えられる。
推量したことを述べる文は、次の二つの条件を満たす。
a.叙述した内容が、話し手にとって真偽未確認の事柄である。
b.話し手は、叙述した内容が真実であることを支持している。
①、②の「温泉は混んでいる」の部分を叙述内容とすれば、二文とも、上のaとbの条件を十分に満たしていることになる。
言い習えれば、①と②は「温泉は混んでいる」に対する話し手の態度(陳述)が類似していることになる。
渡辺実(1971)は、陳述について次のように説明している。
陳述とは~言語主体が、その素材、あるいは対象・聞手と自分自身との間に、何らかの関係を構成する関係構成的職能である。
陳述の職能を託される内面的意義としては、言語主体の断定・疑問・訴え・呼びかけが認められる。
②の文の「温泉は混んでいる」 の部分のみを叙述内容であるとすれば、この「と思う」は、①の「だろう」と同様に、「関係構成的職能」、すなわちモダリティ表現としての役割を果たしていることになる。
中右実(1979)は、モダリティを「話し手自身の発話時(瞬間的現在)の心的態度」であるとして、そ の定義上、②のように「瞬間的現在にかかわる話し手の思考作用」である「と思う」は、モダリティ表現である、と断言している。
上のような考え方を、「と思う」のモダリティ性を積極的に認める立場とすると、以下に述べるような考えかたは、「と思う」と、本来のモダリティ表現との違いを積極的に強調する立場であるといえる。
「と思う」をモダリティ的表現としない考え方の発端となるのは、「思う」が活用を持ち主格をとることができ、具体的な意味も有する立派な動詞である、つまり「詞」であるという認識である。
品詞分類上「思う」は動詞であり、「だろう」は助動詞である。この違いが表現様式に与える影響は大きい。
寺村秀夫(1984)は 「と思う」「だろう」両表現について次のように述べている。
~「…ト思ウ」という言い方そのものは、「思ッタ」という過去形もあり、自分の心の状態を客観化していうものである。これに対し、「…ダロウ」はそのときの心の状態の直接的表現である。~(中略)
(11) 太郎ハ敢ケルト思ウ
(12) 太郎ハ敗ケルダロウ
(11)について「思ウ」の主体は誰か、という問いを発することはで きる。つまり、表層構造の底層に意味の構造を設定する考えかたでは、「私ガ……思ウ」というような結びつきの構造を「太郎ガ敗ケル」コトを包む構造として設けることはしごく自然だということである。
これに対し (12)のダロウの主体は誰か、というような問は、特に意味の構造というものを考えるのでない限りでてこない。
〜これがダロウ(その他のムードの助動詞)が「話し手自身の発話時の心の状態の直接的表現」だということの意味である。
寺村氏は(11) と (12) が意味的にはほぼ等価であることを認めた上で、上記のように述べているのである。
また、「詞」と「辞」の区別を考慮する立 場として、永野賢(1958)では、次のように述べている。
~詞は、客体的に、概念的にとらえたものを表現する語、辞は、話し手の 無限や感情をそのまま、直接に表現する語だと説明される。たとえば、
太郎君が行くらしい。
の「らしい」は、太郎の推量を表すのではなく、話し手の推量する気もちを直接に表している。ところで、これを、
太郎君が行くと推量する。
と表現すると、この「推量する」という語は、話し手の推量する気もちを表している点は同じだが、それを客体的に、概念化してとらえているといえる。「推量する」と「らしい」は同じ事がらを表現しているわけである が、表現するしかたかちがうので、「推量する」は詞、「らしい」は辞とされるのである。つまり詞と辞とのちがいは、何を表すかではなく、いかに表すかのちがいなのである。
永野餐(1958)『学校文法概説』(共文社)
(上の例文の「らしい」を「だろう」に、「推量する」を「思う」に置きかえることができる。)
永野氏の表現を借りれば、
- 「何を表すか」を重視 → 「と思う」のモダリティ性を積極的に認める立場
- 「いかに表すか」を重視 → 「と思う」の非モダリティ性を見過ごせない慎重な立場
ということになろうか。
こうしてみてくると、これらの二方向の考え方は、正反対であるというよりも、表裏一体であるといった方がよさそうなことに気づく。
つまり、両者とも①と②の類似性を認めるところから出発し、一方は意味的側面を、他方は形態的特徴を述べたものである、と見ることも出来るからである。
「形は違うけれど意味はそっくりだ」と言うのと、「意味はそっくりでも形が違う」と言うのとでは、強調したい部分は異なるが、内容的には差がない。
そこで、新たに問題を提起する。
- 「だろう」文と「と思う」文は、なぜ意味が似るのか?
- 「だろう」文と「と思う」文に意味の違いはあるのか? あるとすれば、どう違うのか?
2.人称制限と意味の関係
上の二つの問題に進む前に、「思う」という語の性質について考えてみる。
終止形「思う」の文は、②の例のように主格が省略されることが多いが、その動作主はほとんどの場合、話し手である。
ただし、次のような例外が存在する。
③
あのとき、あと十年年をくっていれば自分はしずの誘いに応じただろうと彼は思う。
③のように、小説の地の文という特殊な場であれば、語り手(話し手)である作者は、自分以外の者を「と思う」の動作主に据えることができるけれども、普通の談話でこのような言い方をした場合、かなり奇異な印象となるだろう。
このような、人称制限というべき現象は、「思う(終止形)」の他に、意志 ・希望・感情感覚などを表す表現の終止形の文にも観察出来る。
④彼は水がほしい。
⑤彼は寒い。
⑥彼は温泉に行こう。
④と⑤は、③のような小説の地の文や、詩の表現としてであれば、許容されるかもしれないが、⑥の場合は、使用可能な文脈が想定できない。
仁田義雄(1979)は、このような人称制限を手掛かりにして、日本語文の表現類型を次のように定めた。(ただし仁田氏は「思う」には言及していない)
表出型・・・自称詞のみを取る
訴え型・・・対称詞のみを取る
演述型・・・他称詞を取る→
→ 状況描写文………他称詞のみを取る
→ 判断文…自称詞・対称詞も取る
仁田義雄(1979) 「日本語の表現類型一主格の人称制限と文構造のあり方の観念について」『英語と日本語と 林栄一教授還暦記念論文集』くろしお出版
また、寺村秀夫(1984)は、感情形容詞(終止形)の人称制限が示唆することについて、次のように述べている。
(87) 水ガホシイ人
(88) 太郎ハ水ガホシイノダ
(90) 太郎ハ水ガホシイト言ッテイル
(91) 太郎ハ水ガホシソウダ
(92) 太郎ハ水ガホシイソウダ
(93) 太郎花水ガホシイラシイ
(94) 太郎ハ水ガホシイダロウナ
(95) 太郎ハ水ガホシイニチガイナイ
(97) 太郎ハ水ガホシカッタ
等々の文には、にずれにも、
(96) ×太郎ハ水ガホシイ
のような不自然さは認められないのである。
(中略)
感情形容詞の特殊な、構文的制約は、それが文の素材的部分内の述語にとどまる限りでは起こらない。その形容詞がムード完成に寄与するときにのみ問題となる。
(中略)
ノダが、説明的判断というムードを、ソウダ・ラシイ等が推量判断というムードを表しているとすれば、感情形容詞の現在形(終止形)で終わる文もまたそれらと並ぶ一個のムードと呼ぶとすると、感情形容詞自体の一般的特性のようにいわれている、いわゆる主語の人称に関する制約は、実は感情のムードという構文に由来するものである、ということになる。
寺村秀夫(1984) 『日本語のシンタクスと意味』(くろしお出版)
(用例番号は本文のまま引用した)
「と思う」の人称制限解除の要因も、上の感情形容詞の場合とほぼ一致する。
「と思う」文は、仁田氏の表現類型では「表出文」に、寺村氏の「感情表出のムード」に、近い性質を持つことになる。
感情、感覚・思考内容を直接経験でき、知ることができるのは、本人だけであり、本人以外の人間はそれを共有することは出来ず、本人の言動や自 分の知識経験から間接的に判断するほかはない。
「思う」(終止形)は、その意味で感情形容詞と共通する意味内容を持つ。したがって、「~と思う」 文を仁田氏の「表出文」、寺村氏の「感情表出のムード」に近いものを有する文として扱うことは、まず問題がないと思われる。
3. 「表出」方法の種類
いささか乱暴だが、推量のモダリティ表現と考えられるものを、とりあえず次の二つに分けてみる。
A 「う」「よう」「まい」「だろう」「でしょう」「らしい」「ようだ」「かもしれない」「にちがいない」などの、助動詞や連語。
B 「と思う」など、引用構造をもつ思考動詞の終止形。
両者は、前節でみたように似た側面を持つのであるが、その形式の差によって、構文的性質も異なってくる。
Aに分類した推量のモダリティ表現は、通常、同じ文の文末で共起することができない。
✖︎温泉は混んでいるらしいだろう。
✖︎温泉は混んでいるだろうに違いない。
一方、 AとBとは、共起することが可能な場合がある(可能でない組み合わせもあるが、今回は触れない)。
⑦温泉は混んでいるだろうと思う。
⑧温泉は混んでいるかもしれないと思う。
⑨温泉は混んでいるに違いないと思う。
「と思う」は、Aの推量のモダリティ表現の文を引用する他、次のように、人が自然に心の中で発する、つまり「思う」ことが出来るようなモダリティの文であれば、概ね引用できる。
⑩温泉は本当に混んでいるのだろうかと思う。(疑念)
⑪この忙しい時に、温泉になぞ、よく行けるものだと思う。(驚き・あきれ)
⑫なんて安い温泉だろうと思う。(感嘆)
(勧誘・命令文など、相手に働きかける性質のものや、伝聞の「そうだ」「という」の文などは、「と思う」には引用されにくいが、それらについては今回は考察しない。)
⑦から⑫の用例の引用節は、後接する「と思う」が終止形(現在形)であるならば、話し手の発話時(つまり「思う」のと同時)の判断によって述べられているものである。
さらに、これらの文では、「思う」を取り去っても、発話された文脈内で許容できないような不自然さを生ずることはないと思われる。
つまり、これらの文の引用節のモダリティ表現は、実質的に、文全体のモダリティ表現としても機能していると言えるのではないか。
となると、Aの推量のモダリティ表現に後接の形で共起可能であり、取り去っても文意を破壊することのない「と思う」という表現の存在意義とは、何なのであろうか。
温泉は混んでいるだろう。
温泉は混んでいると思う。
この二つの文を比較する時、「だろう」と「と思う」は、推量のモダリティ表現として、ほぼ等価のように思える。
けれども、次の4例を比較したとき、別の様相が見えてくる。
たぶん、温泉は混んでいる。
たぶん、温泉は混んでいるだろう。
たぶん、温泉は混んでいると思う。
たぶん、温泉は混んでいるだろうと思う。
これらの文は、いずれも、話し手が「温泉は混んでいる」ことを推量して述べたものとして解釈することができる。
冒頭の副詞「たぶん」が推量のモダリティ性を確保しているため、文末の「だろう」「と思う」「だろうと思う」の、推量のモダリティ表現としての存在意味は薄く、取り去ってしまっても、その文が推量のモダリティを帯びたものであるという点は揺るがない。
となると、文末の推量のモダリティ表現群は、推量のモダリティ表現として、文に必須であるとは言えず、任意に着脱できる要素ということになる。
これまで見てきたことを踏まえて、先の二つの問題提起のうちの、
「だろう」文と「と思う」文はなぜ意味が似るのか?
に、結論を与えるとすると、以下のようになる。
温泉は混んでいるだろう。
温泉は混んでいると思う。
この二つの文における「だろう」と「と思う」は、どちらも「温泉は混んでいる」ということを、話し手が推量して述べているということを明確に示すモダリティ表現としての役割を果たしている。
身も蓋もない言い方ではあるが、同じ事柄に対して、同じ推量のモダリティが発動しているのであるから、「似ている」のは当然ということになる。
次に、もう一つの問題について考える。
「だろう」文と「と思う」文に意味の違いはあるのか? あるとすれば、どう違うのか?
推量のモダリティは、上で見てきたように、文末のモダリティ表現によって発動するものとは限らない。
「たぶん」などの副詞、あるいは文脈的な支えがあれば、「だろう」「と思う」がなくても、推量のモダリティの文を作ることは可能である。
それは、話し手が、「温泉は混んでいる」という叙述内容を持つ、推量のモダリティ文を発話しようとする時、選択可能な表現形式は複数存在するということでもある。
「だろう」「と思う」だけに絞って考えても、次の4パターンが選択肢として考えられる。
温泉は混んでいる。
温泉は混んでいるだろう。
温泉は混んでいると思う。
温泉は混んでいるだろうと思う。
これらは、推量のモダリティ文であるという点は共通しているけれども、完全に同じ意味の文ではない。
話し手は、自らの表現意図に合致する表現形式を選んで発話することになる。
「ねえ、今度の連休、温泉行かない?」
「行かない」
「何でよ」
「温泉なんて、混んでるだろう。家の風呂がいい」
上の例の「だろう」は、推量のモダリティ表現というだけではなく、相手への投げやりな語気を込めて確認や同意を求める表現でもある。この用法での「だろう」は、「混んでるよ」などに置き換えることは出来ても、「と思う」「だろうと思う」で代替することはできない。
「あそこの温泉、テレビで評判になってたじゃない。絶対混んでるってば」
「うーん、混んでるとは思うけど、まあ行けば何とかなるって」
上の用例の「と思う」は、「だろう」に置き換えることは可能だが、その場合、「混んでる」という相手の推量に対して、話し手も同意するものであるというニュアンスは軽くなる。「だろうと思う」に置き換えた場合は冗長となり、判断に躊躇している、あるいは慎重であるようなニュアンスが加わる。「混んでる」には置き換えることはできない。
昔、友人たちと行った温泉宿は、人気がなくて、自分たちの貸切のようだった。
四十年たった今、あの一帯は町おこしに成功して、見違えるほどに華やぎを増したと聞く。思い出に残るあの宿も、混んでいるだろうと思う。
この例の「だろうと思う」には、書き言葉での文章表現において、過去の記憶を懐かしく想起しながら、現在のありさまに思いを馳せて、しみじみと述懐するというニュアンスがある。「だろう」に置き換えることはできるが、しみじみさは減少する。「と思う」に置き換えた場合、話し言葉的なニュアンスが加味される。「混んでいる」に置き換えると、宿が混んでいるという事実を述べた文と解釈されるため、置き換えることはできない。
4.結論
(間違っていたので削除した。)
《用例観察に用いた資料》
畑正憲「ものいわぬスターたち』(中公文庫 昭和49年)
畑正憲『ムツゴロウのため息』(文春文庫 昭和55年)
開高健『それでものまずにいられない』 (講談社文庫 昭和60年)
栗本薫『ネフェルティティの微笑』(角川文庫 昭和61年)
横尾忠則『地球の果てまでつれてって』(文春文庫 昭和61年)
眉村卓『ふつうの家族』(角川文庫 昭和59年)
川又千秋『1+1=0』(角川文庫 昭和60年)
川又千秋『一発』(角川文庫 昭和60年)
司馬遼太郎『人間の集団について』(中公文庫 昭和49年)
平井富雄『病める心のカルテ』(中公文庫 昭和59年)
大宮信光・他『サイエンス・スクランブル』(新潮文庫 昭和60年)
田辺聖子『いっしょにお茶を』(角川文庫 昭和59年)。
田辺聖子『お聖どんアドベンチャー』(集英社文庫 昭和55年)
渥美雅子『女の法廷』(中公文庫 昭和59年)
土田直鎮『日本の歴史5』(中公文庫 昭和48年)
松下幸之助『なぜ』(文春文庫 昭和51年)
渡辺淳一『わたしの女神たち』(中公文庫 昭和57年)
筒井広志『オレの愛するアタシ』(新潮文庫 昭和60年)
【参考文献】
仁田義雄(1979) 「日本語の表現類型一主格の人称制限と文構造のあり 「方の観念について」(『英語と日本語と ろしお出版) 林栄一教授還暦記念論文集』
中古実(1979) 「モダリティと命題」(同上)
寺村秀夫「ムードの形式と否定』(同上)
寺村秀夫(1984) 『日本語のシンタクスと意味』(くろしお出版)
永野餐(1958)『学校文法概説』(共文社)