こんにちは。
ふにゃもらけは、ちょっと早めのハロウィンイベント中。
子どもたちが小さい頃は、手作りのお菓子やオーナメントの飾り付けなどを楽しんだものだけど、この数年はすっかり億劫になって、なにもやっていなかった。
今年はどうしようか。
飾り付けは面倒だけど、脳みそプリンとか、オバケクッキーぐらいだったら、作ってみてもいいかも。
Amazonで買ったシリコンの脳みそ型、どこにしまったかな。。。
(_ _).。o○
末っ子が勉強のやり過ぎで腰にきたらしく、座っていられないと嘆いていたので、腰痛体操を教えておいた。
ぎっくり腰をやった時に、整骨院で教わった体操で、ゆっくり腰を回すだけなのだけど、まめにやっていれば、腰回りの鬱血を防げるので、ぎっくり腰のリスクが下がるそうだ。
私もやっておこう。
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「『枕草子』決めの一文」(はんざわかんいち著)という本を読みはじめた。
奥付に2022年9月5日初版発行とあるから、まだ書店には並んでいないのかもしれない。
亭主が著者の方からいただいた本なので、「謹呈」のお手紙が挟まっている。うっかり失くさないように気をつけながら、読み進めている。
日本語学的な研究なので、章段冒頭の一文の文頭にくる単語が名詞であるものが224例(69.3%)で形容詞が50例(15.5%)、形容動詞が19例(5.9%)…といった記述がずーっと続く。
お願いだから表かグラフにしてください(;_;)。
と、最初は泣き言をつぶやきつつ読んでいたけれど、50ページほど読んでいたら、慣れてきた。
だけど、書名になっている「決めの一文」が何であるのが、よく分からない。
ズルをして、「おわりに」を先に読んでみた。
筆者の関心は、時代を問わず、一つのまとまりとしての文章がどのようにして成り立つかにあります。内容としてのまとまりも、表現上の手掛かりがあってこそです。その手掛かりとしてもっとも重要なのが、つまり「決めの一文」が、冒頭文と末尾文であると考えています。
はんざわかんいち「『枕草子』決めの一文」 p157
んー
なんか、ふわっとしていて、意図するところがつかみにくい。というか、するっと頭に入ってこない。
私の頭に入る形に書き換えてみる。
- 「決めの一文」は、一つのまとまりとしての文章が成立していると(読者が?)判断する(?)手掛かりである。
- 文章成立の手掛かりとして最も重要なものは、「決めの一文」である。
- 「決めの一文」とは、冒頭文と末尾文である、と筆者は考えている。
こうしてみると、頭には入るんだけど、分からないことも増えてくる。
「決めの一文」は、文章の内容としてのまとまりの「手掛かり」らしいのだけど、「手掛かり」と言われると、読者がその文章を読み解く上での糸口、きっかけ、ヒント、といった意味合いに受け止められる。
だとすると、この本で論じられていることは、「文章がどのようにして成り立つか」ということではないのだろうし、「決めの一文」が文章成立の条件というような話でもないのだろう。
よく分からないけど、本書の趣旨は、こういうことだろうか。
人がその文章を読んで、内容的にまとまったものとして成立していると判断するときの、最も重要な手掛かりと考えられる『決めの一文』というものを、とりあえず冒頭文と末尾文であるとする筆者の直感、もしくはゴーストの囁きをモチベーションとして、「枕草子」の章段の冒頭文と末尾文の形や意味を分析分類することで、文章という、不定形で定義付けの困難で、もっと言えば読み手次第でどうとでもなりかねない、ある意味とてもいい加減なものの本質(なんかあるかどうか分からないけど本質無いとなると学問の対象にするのが難しくなるから便宜上あることにして)の一端を明らかにすることを試みる、というような。
印象としては、論理を持ち込みにくい性質のものを論理的に解ろうとするために、土台のないところに足場を仮設しているために、フワッとしたりヒヤリとしたりする感じだろうか。
なんとなく、脱構築主義の建築物群を思い出した。あれはとても面白い。