湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

「枕草子」第二段…抜けている月について

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AIのCopilotさんに、「枕草子執筆中の清少納言の絵を描いて」とお願いしたら、四枚書いてくれた。そのうちの一枚が、上の絵。

 

分厚いお布団が暖かそうだけど、室内に貼り付けてある謎の張り紙などのせいで、呪詛でもしているように見える。

 

それはともかく、今回は「枕草子」第二段冒頭に出てくる、月について。

 

第二段  

 

ころは、  

 

正月・三月・四月・五月、  

 

七・八・九月。  

 

十一・二月。

 

すべて、をりにつけつつ、一年ながらをかし。

 

枕草子

 

「すべて、をりにつけつつ、一年ながらをかし」なんて言っているのに、なぜか、抜けている月が三つある。

 

二月

六月

十月

 

この三つの月に、清少納言は何か思うところでもあるのだろうか。

 

とりあえず、二月について、考えてみる。

 

平安時代の二月の宮中行事をネット検索してみたら、次の三つが見つかった。

 

  • 祈年祭(きねんさい)…旧暦2月4日、五穀豊穣を祈る祭祀。平安中期からは天照大御神を祀る行事となった。
  • 列見(れけん、れっけん)…2月11日、下級官人の階位授与の手続き。
  • 春日祭(かすがさい)…春日大社(奈良)で行われる、天下泰平、五穀豊穣を祈願するる祭り。

 

まず、祈年祭について。

 

Wikipediaによれば、天武天皇のころには既に行われていた行事だったそうで、 延喜式神名帳記載の全神社(3132座…多い!)が祈願の対象であり、 神祇官が、全神社の神職神祇官に参集させて、そこで中臣氏が祝詞を奏上して斎部氏(忌部氏)が幣帛を神職に配り、これをそれぞれの神社の神に捧げさせたという。

 

でも、神社の数が多すぎて大変だったのか、平安時代には形骸化して、神祇官の内部だけで行うようになったとか。

 

それが 平安時代中頃になると、天照大御神を主に祀る祭祀と認識され、院政期には天照大御神を奉祀する天皇の祭祀として厳修されたという。

 

天照大御神というと、菅原孝標女が「更級日記」の中で、人生の後半に入ってから厚く信仰しようとしていた神だった。

 

内の御供にまいりたるおり、ありあけの月いとあかきに、わが念じ申す天照御神は、内にぞおはしますなるかし、かゝるおりにまいりて、おがみたてまつらむ、と思て、

 

更級日記」 三十九

 

【普通の意訳】

 

私がお仕えしている祐子内親王が、宮中に参内なさるので、そのお供をした折。

 

有明の月が大変明るい時に、私が心のなかでずっと気に掛かっていた天照大御神は、内侍所におられるというわよね、この機会に参拝しよう、と思って…

 

……

 

宮中の内侍所(ないしどろこ)には、三種の神器の一つである、八咫の鏡(やたのかがみ)が安置されていた。

 

八咫の鏡は、天照大御神が岩戸に引きこもったときに捧げられたと、神話で語り伝えられている神器だ。

 

菅原孝標女が宮仕えを始めたのは、三十二歳になった1039年ごろだという。その頃には、天照信仰が盛んになり始めていたのかもしれない。

 

一方、「枕草子」には、直接的に天照大御神について述べる記事は見当たらないようだ。内侍所関連は出てくるけれど、「内侍所(賢所)御神楽」の「人長舞」についてだった。

 

「内侍所御神楽」が始まったのは、1005年、一条天皇の時に火災で神鏡が損傷してからで、十二月の公式行事となったのは、1038年に後朱雀天皇の勅命が出てからのことだという(Wikipediaより)。

 

この公式行事化が、天照信仰の引き金になったのかもしれない。

 

その翌年の1039年頃から宮仕えを始めた菅原孝標女も、華やかに行われた内侍所神楽の評判を聞いて、自分も参拝したいという気持ちを抱いたのではないだろうか。

 

で、話を「枕草子」に戻すのだけれども…

 

中宮定子の崩御は、1001年。

枕草子」は、1001年ごろには、ほぼ完成していたとも。

 

天照信仰が盛んになる前だから、二月の祈願祭は、おそらく形骸化した状態で、神祇官(朝廷の祭祀を司る官庁)の内部で地味に執り行うものだったのだろう。

 

つまり、女房である清少納言たちが関わるような、華やかな儀式ではなかった可能性が高そうだ。

 

同じく二月の行事である列見(れっけん)も、下級官吏の階位授与だから、華やぎとは縁がなさそうに思える。

 

二月の行事の中では最も華やぎを期待できそうなのは、春日祭だろう。

 

春日大社藤原氏氏神であるため、兼家や道長も信仰厚く、何度も参詣したという。

 

春日祭は、毎年二月と十一月の最初の申の日に開催され、祭のために派遣される春日祭使は、藤原氏の少将や中将が勤め、奈良に下る行列はとても壮麗だったという。

 

ところが「枕草子」では、「えせものの所得るをり」(つまらない者がドヤ顔する時)として、「春日祭近衞の舍人(とねり)ども」をあげている。(第一五六段)

 

この「春日祭」が二月開催のものかどうかは分からないけど、清少納言は近衛舎人のドヤ顔を見ているのだから、確実に春日祭使の華やかな行列を見物している。

 

どうやら行事のことを調べただけでは、清少納言が二月を省いた理由は、見えてきそうにないので、またあらためて、別の観点からも考えてみることにする。

 

 

 

 

↓すっかり忘れていたけど、2年前にも同じ段を読んで疑問を抱いていたらしい。

 

dakkimaru.hatenablog.com