こんにちは。
なるべくMacBook airでブログを書こうと頑張っているのだけど、なかなかつらい。
タイピングはだいぶマシになったけど、細かい操作が身についていない。
トラックパッドとやらが手に馴染まず、右手がマウスを探して彷徨ってしまう。
マウスをつなげることも考えたけど、それをやってしまうと、トラックパッドとは永遠に仲良くできそうにないので、我慢することにした。
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昨日は、亭主を誘ってMOVIXに出かけて、映画「聖おにいさん」を見てきた。
夫婦で映画を見に行くのは、1992年に「豪姫」を見て以来だから、33年ぶりということになる。
末っ子も誘ったのだけど、体調が悪いとのことで(両親に遠慮したのかも)、二人ででかけることになった。
二人で出かけること自体、年に一回あるかないかだったりする。子どもたちの病気や障害に対応するうちに、そういう生活が当たり前になっていた。
MOVIXまでは、徒歩と電車で40分ほどかかる。
車なら楽だけど、ウォーキングで歩数を稼ぐ目的もあるので、あえて電車で行くことにした。
チケットはMOVIXの券売機で購入。
ネットで予約するのと同じ要領だったので、戸惑うこともなかった。
上映開始まで、近くのカフェで一休み。
ほうじ茶オレと、カヌレを頼んだ。
休憩中、以前から疑問に思っていた、「枕草子」冒頭の解釈について、亭主に詳しく聞いてみた。
春は、あけぼの
やうやう白くなりゆく山ぎは
すこしあかりて
紫だちたる雲の、細くたなびきたる
私が知りたいのは、ここで見える「紫だちたる雲」の色が、実質的にどんな色だったのかということだ。
それを問うと亭主は、読売オンラインの記事に写真があるから見ろというのだけど、その写真なら新聞掲載時に凝視しているからよく知っている。だけどその写真には、「紫だちたる雲の、細くたなびきたる」に該当すると思しき雲が、映っていない。雲はあるけど、細くたなびいていないのだ。
夜明け前、山の稜線がほんの少し見えてくる程度の、彩度がほとんどないような暗がりで、細くたなびきたる雲、すなわち、その日一日の快晴を確約してくれるという巻雲は、本当に「紫」がかって見えるのか。
私の脳内シミュレーションでは、その「紫」は、朝焼けの赤みとは全く無縁の、極めて濃い青鈍色に近いのではないかと思えるのだけれども。
鈍色は、平安時代の喪服の色である。
大河ドラマ「光る君へ」の中宮定子や清少納言たちも、鈍色の喪服を着ていた。
春の良さが、日の出前の彩度を欠いた、喪服のような鈍色の巻雲にあるのだと、清少納言は言いたかったのではないのか。
死を象徴するかのような鈍色の雲こそが、春の日差しに満ち溢れる未来の予兆であると、暗に示したかったのではないか…と、妄想してみるのだけれど、真偽を確かめるすべはない。
せめて実際に春のあけぼのを確認する機会があればと思うのだけど、残念ながら、我が家の東側に山はない。
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「枕草子」の第一段で、春夏秋冬で取り立てるべき時間帯を列挙した清少納言は、昼間の良さを語らなかった。
春はあけぼのの、日の出前。夏は夜。秋は夕暮れ。冬は早朝。冬の昼間は取り立てられたものの、「わろし」と評されている。
けれども作者は決して昼を嫌っていたわけではなく、第二段では、四月のすっきりと晴れた青空を「をかし」と言っている。
木々の木の葉、まだいと繁うはあらで、わかやかに青みわたりたるに、霞も霧もへだてぬ空のけしきの、なにとなくすずろにをかしきに、すこし曇りたる夕つ方・夜など、しのびたる郭公の、とほく「そら音か」とおぼゆばかり、たどたどしきをききつけたらむは、なに心ちかせむ。
枕草子 第二段より
【怪しいというほどでもない意訳】
(四月は)木々の葉は、まだぎっしりもっさり繁っている状態ではなくて、初々しい新緑が視界一面に広がっていて…
雲も霞もなく晴れ渡った空の様子に、特に何という理由もなくワクワクした気持ちでいると、少し曇ってきた夕方、あるいは夜になってから、それまで隠密行動をしていたホトトギスが、空耳かしらと思うほど、 遠くで下手くそに鳴いているのを聞いたような時は、どんな気持ちになると思う?
もう、最高なんだから!
……
一点の曇りもない青空は「なにとなくすずろにをかしき」(なんとなく、理由もなく良い)という。
どうもその青空は、単体で賞美するものではなく、かすかにホトトギスの鳴き声が聞こえる宵の暗闇と対比させるために、持ち出されてきたようにも思われる。
なんとなく、清少納言は、意外性を好むというか、ギャップ萌えの人のような気がする。