ほととぎす なくやさ月の あやめぐさ あやめもしらぬ こひもするかな
読人しらず
古今和歌集 巻第十一 恋歌一 469
【なんとなく意訳】
ホトトギスの鳴く五月。
咲き乱れるあやめの花。
そんな季節に、私は、文目(あやめ)を見失うほどの狂おしい恋をしてしまった。
※あやめ(文目)……模様。物の形。筋道、分別。
岩波古典文学大系(旧大系)の「古今和歌集」の、この歌の頭注に、よく分からないことが書いてある。
ほととぎすなくや----「さ月」にかかる連体修飾語の終りに詠嘆の「や」を添えた言い方。
さ月のあやめぐさ----五月五日の節句に用いる菖蒲(しょうぶ)。時期におくれて役に立たないもののたとえに「六日のあやめ」というのもそれである。初句からここまでは、同音の関係で次句の「あやめ」を出す序詞。ただし、こういう序は、五月五日に送る歌に用いなければ役に立たないであろう。
やたらと「役に立たない」ことを強調しているけれど、この歌が五月五日に詠まれたものでないとは書かれていない。なので、長々しい序詞に「役に立たない」の意味が暗示されているのかどうかも、分からない。
なんだろう。
注釈を書いた人は、恋に溺れている人に恨みでもあるんだろうか。
恋愛沙汰で使い物にならなくなった仕事仲間でもいたんだろうかと、勘ぐりたくなる。
この頭注自体が、なんだか私情にかられて「文目」を踏み外しているようにも思うんだけど、違うんだろうか。
追記。
亭主に聞いたら、「六日の菖蒲」は枕草子あたりに事例があるとか。そのうち探してみよう。