読書
萩原浩「海馬の尻尾」読了。
最初は暴力シーンの多さに辟易したけれど、途中からものすごく面白くなって、最後はイッキ読み。
主人公は人間のヤクザだけれど、物語の主役は、障害を持った二つの脳だった。
反社会的パーソナリティ障害のヤクザの男の脳と、ウイリアムス症候群の少女の脳。
主人公は、他人に共感する能力や、恐怖を感じる心情、良心の欠如したサイコパスであり、激しい暴力を受け続けた生育歴の影響もあって、武闘派のヤクザとして極めて血なまぐさい暮らしを送っていた。
もともと人を痛めつけることに快感を覚え、小動物をなぶり殺して楽しむような性格だったから、他人に対して何の躊躇もなく暴力を振るうことができるのだ。過去には、自分を虐待しつづけた義父を金属バットで殴って脳みそが露出するほどの怪我を負わせたことがある。ただし、人を殺したことは、まだなかった。
重症のアルコール中毒でもあった彼は、自分の組のカシラに勧められて通うようになった精神病院の待合室で、ウイリアムズ症候群の少女と知り合う。
恐ろしい風貌の主人公を見ても、少女は恐れるどころか、底なしの親愛の情をふりまきながら懐いてくる。そういう特質をもった障害なのだけれど、その裏表のない好意を浴びて、主人公の脳がほんのわずかだけ反応し、変化する。とはいえ、もちろん簡単に善人になるわけではない。
精神科の医師は、問診や検査のあと、主人公が反社会的パーソナリティ障害であると診断し、薬剤を使った治療のプログラムに参加することを提案する。
最初はそんなものに参加する気持ちのなかった主人公だけれど、強烈な暴力衝動に駆られるままに敵対するヤクザの組長を殺害してしまい、命を狙われることになる。
殺されることを恐れる主人公ではなかったけれども、抗争の火種になることを恐れた自分の組のカシラに身を隠すように命じられたことから、勧められた医療機関に長期入院してアル中の治療をすることになる。
他者に共感できないということは、他者の感情が全く分からないということでもある。主人公には人間の表情の変化から感情を読み取ることすらできなかった。
だから、世話になっているカシラや、日頃一緒にいる手下の表情が、いつもとどこか違っていても気がつかない。自分の命を狙う人物が身近にいても、相手が行動を起こすまでは、危険を察知することができない。小説は主人公の視点から描かれているから、周囲の人物はステレオタイプだらけで、まるでマネキンか、粗雑なアニメのような印象になっている。
けれども主人公に治療プログラムを勧めた精神科医が「普通ではない」こと、おそらくは主人公と同じような共感力の乏しい脳の持ち主であることは、最初から想像がつくように描かれていたと思う。まるで曇りガラスを通して見ているような人物像なのに、反社会的パーソナリティ障害の主人公を、少しゆがんだ鏡に写してみたかように思えてくるのだ。
ただし、この精神科医の実験の思惑が、主人公や他の患者たちを利するものか害するものかは、物語がだいぶ進んでくるまで、判断がつかなかった。もしかしたら、社会を利する形で生きることに成功しているサイコパスの一人なのではないかと、期待させられる部分があったからだ。
実際、主人公が治療プログラムに参加しなければ、この精神科医は、自らが開発した新薬と治療プログラムによって、結果的に何らかの社会貢献を果たした可能性はある。ただし、実験に適合できなかった何人もの患者の人権を踏みにじり、闇に葬った後で。
書くのが後回しになってしまったけれども、この小説のなかの日本は、「二回目の原発事故」が起きたあとという設定になっている。
テロリストの集団が航空機を原発に墜落させて大きな被害を引き起こしたために、自衛隊が他国を武力攻撃する軍隊となり、実際に他国で開戦して死者を出し始めたことから、強い報復願望や社会不安が国を襲っているのである。それは反社会的パーソナリティ障害の資質を持っていたほうが生きやすいような社会でもあった。そんな社会背景と、ヤクザ組織をうまく利用して、精神科医は自分の非合法で非人道的な実験を推し進めようとしていた。
けれども、治療プログラムのなかで自分の特性を知り、またウイリアムス症候群の少女との出会いが刺激となって、周囲の人間への共感力に少しづつ目覚めていった主人公は、仲間の患者たちや少女が薬害らしきもので変調をきたしはじめたことを察知し、自分が収容されている医療施設の黒い側面に気づいていく。
自分が死ぬことも意に介さない暴力人生を歩んできた主人公は、無償の愛情を教えてくれた少女の命を救うためだけに、精神科医を社会的に破滅させる資料を握って閉鎖病棟を脱走し、心の通じた患者仲間と少女たちを逃がしたあとで、自分を殺しにきたヤクザたちとの戦いへと向かっていく。
主人公が助かったのかどうかは分からない。
これでもかというほど死亡フラグが立った状態で物語が終ったのだから、死んだのだろうとは思う。
でも、痛みや悲しみを知ったこの人の別の人生……少女と一緒にバースデーケーキを食べるところを、できれば見てみたかった。
完全な蛇足なのだけど、主人公の手下の名前が「翼」だったけれど、さすがに「糞」と見間違えることはなかった。
↓「脱翼」を「脱糞」と見間違えたまま芥川賞受賞作「百年泥」を読了した日記…
さらに蛇足なのだけど、私の記憶が確かならば、「脱糞」という言葉を覚えたのは、たぶん高校の頃に読んだ倉橋由美子の小説に出てきたからなのだけど、それがどの作品だったかまでは思い出せない。「パルタイ」だったとは思うのだけど、ちよっと読んでみるには、Kindle本が高いのだ(1080円)。
紙の文庫本は持っているはずだけど、かれこれ四十年近く前に買ったものだから紙が日に焼けてしまって読みにくいだろうな。