湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

日曜日のレギオン

ブログの更新が、一日飛んだ。

 

とりあえず、昨日の日記を書こう。

 

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ギオン

 

昨日は日曜日だったので、末っ子と二人で、朝から教会学校へ。

 

ルカによる福音書に出てくる、レギオンという悪霊のお話を聞いた。

 

町の墓場に、悪霊の集合体取り憑かれた男が住んでいた。男は服を着ず、まともな言葉も話せず、死臭と腐臭の充満した墓穴の中で、自分で自分の身体を傷つけながら叫び声ばかりあげているので、町の人々は男が墓場から暴れ出ないように、身体を拘束していた。

 

ある日、イエスがその墓穴に入り、男に近づくと、男に取り憑いた悪霊たちが苦しがって、自分たちを払って恐ろしい場所に追いやらないでくれと懇願した。イエスが悪霊に名を聞くと、悪霊はレギオンであると名乗り、近くにいた豚の群れに乗り移ることを許して欲しいと願った。イエスがそれを許すと、レギオンたちは豚のなかに入り込み、そのまま崖に突進して、群れごと墜落死してしまった。

 

豚飼いたちに話を聞いて墓地にやってきた町の人々は、墓場の男がすっかり正気を取り戻した様子をみて驚き、得体の知れない力を持つイエスを恐れて、一刻も早く立ち去ってくれるようにと願った。

 

ギオンから救われた男は、イエスを慕って付き従って行くことを望んだけれども、イエスは彼を町に残し、自分に起きたことを町の人々に伝えるように言い残して去った。

 

(_ _).。o○

 

ギオンに取り憑かれたという男は、今の時代だったら、なんらかの病名や症例名を与えられて、医療や福祉の支援を受けることになるのだろう。

 

精神疾患や知的障害、高次脳機能障害などに対する無理解や偏見、差別は、残念ながらいまもまだあるけれど、かつてほどではなくなった。自分や家族が精神科にかかることや、障害者手帳を取得すること、福祉の支援を受けることを、むやみに恥じるような風潮は、平成の間にずいぶん薄れてきたとは思う。

 

特別な支援を必要とするような家族がいても、対外的には「いないこと」にして、医療にかからず、風の通らない墓穴のような家庭内の密閉空間に全てを押し込め、その開かずの扉の内と外の調和を守るために家族の中の誰か一人犠牲になって自分の人生を完全に諦める……みたいな話が、昭和のころには普通にあった。

 

そもそも養護学校特殊学級ができたのは、私が生まれたあとのことで、重度の障害児がほぼ全員通学できるようになったのは、そう遠い昔のことでもない。通える学校が近隣になかったり、あっても引き受けてもらえなかった子どもたちは、就学猶予というような名目で、ただただ家にいるしかなかったと聞く。

 

そういう精神的風潮の名残は平成にもまだあって、息子より少し学年が上の子のお母さんから、オバアチャンが孫を道連れに死ぬという「美しい覚悟」を決めてしまっていて、事あるごとに「私が逝くときにはこの子も一緒に」と言うので困惑しているという話を聞いた。そのお母さんは仕方なさそうに半笑いで話していたけど、実のところ笑い事ではなくて、そういう無理心中のニュースは何度も目にしたことがある。

 

もっと生々しい話としては、息子の通っていた学校の先生が、まだ若かった頃、就学前の障害児の両親と面談した直後に、一家心中されてしまったという実話を聞いたこともある。その先生は、進路指導の集会で、私たち親に向かって、

 

「とにかく絶対に、お子さんを抱えて家に引きこもらないでください。お子さんを世の中から隔離せず、必ず社会に出して下さい。学校を卒業したら、仕事でも介護施設でもいいから、なんとしても、家の外に、通う場所、居場所を必ず持たせて下さい!」

 

と、本当に悲痛な表情で訴えた。

 

昭和がどんどん遠ざかるにつれ(昭和を悪者にしたいわけではないんだけど)、精神疾患や知的障害の当事者や家族が医療や福祉にアクセスしやすくなり、また、極めてゆっくりではあるものの、精神疾患や知的障害に対する世間の理解も進んできて、昔の墓穴隔離的な意識は、確実に薄れてきている。

 

けれども、そういう世の中のほの明るい変化をあざ笑うかのように、あの相模原の障害者施設襲撃事件が起きてしまった。医療や教育、福祉による支援を受けることで、人として当たり前に自分自身の人生を所有する可能性に近づいた人たちに対して、「生産性(が低い)」という浅はかな尺度を持ち込んで、存在まるごと否定するような言動が、世の中に吹き出してきた。

 

そういう考えかたは別に目新しいものではなく、「働かざるもの食うべからず」的な意味合いで、古くから人々の意識のなかにあったものだけれども、ピンポイントで重度の知的障害者に向かったというあたりに、何となく何者かの作為を感じるのは、間違いなく気のせいだろうとは思う。

 

気のせいだとわかっていても、私のファンタジー脳は、上に書いた福音書のレギオンたちの後日談を、勝手に作り上げてしまうのである。

 

エスのせいで豚の群れに憑いて崖から墜落していったという、悪霊の集合体であるレギオンは、そのままおとなしく豚に乗ったまま地獄には赴かずに、この世に残ったのではないか。

 

彼らは危うく悪霊祓いされかけた経験から、簡単に宿主を奪われないよう(取り憑き先が正気と健康を取り戻さないよう)に、より巧妙に保身するようになったのではなかろうか。

 

聖書の時代のレギオンたちは、町の中で立場の弱い、貧しくて係累の少ない男を狙って取り憑いて、重篤精神疾患という形で社会から引き離し、思うままに痛めつけ、人生を乗っ取っていたようだ。

 

けれども彼らの取り憑きかたは単純素朴だったため、イエスにあっさり追い出されてしまった。

 

時代が進んで科学が発展し、それまで悪霊憑きと考えられていたような症状に、医療による治療の可能性がでてくると、レギオンたちは、社会的な差別や偏見を使って、家族ごと患者を閉じ込めて治させないようにする方策を思いついたのかもしれない。

 

なにしろ医療は、イエス・キリストように、自ら患者のもとに来てくれたりはしない。患者や家族が医療にアクセスさえしなければ、レギオンはずっと患者に取り憑いて、祓われる心配なくその家に居座ることができる。

 

けれども、さらに時代が進むと、今度は、病気や障害に対する差別や偏見が薄れていくとともに、福祉制度が改善されて、ある程度家族ごと救われる道が見えてくる。障害や病気があったとしても、周囲に支えられながら、安らいで暮らせるのなら、当事者の人生は当事者自身のものであり、レギオンに支配され剥奪される人生ではなくなる。

 

となるとレギオンたちも、この世への残留がいよいよ難しくなるわけだから、さぞかし焦ったことだろう。

 

けれども折りよく経済的な社会不安が巻き起こりつつあったため、それに乗っかるようにして、「生産性」が低く、「税金の負担」になるような医療や福祉を叩くというやり口で、重い病気や障害のある人から人生の主体であることを奪う方向に持っていき、レギオン的安泰確保の突破口を開こうとしたのかもしれない。

 

でも、医療や福祉による救いをまるごと否定するという強硬手段に出たことは、レギオン的立場から長い目で見るならば、とんだ下策であったと言える。障害や病気のありなしに関わらず、人には「生産性」などでは測れない存在価値があることに、多くの人が気づいてしまうわけだから。おそらく人類は、いずれこのレギオン的障壁も克服するだろう(楽観)。

 

さて、現代のレギオンたちは、もっぱら誰に取り憑いているのだろう。

 

 

 

 

蛇足

 

エスは、集団自殺した豚を、豚の持ち主に弁償しなくてよかったのだろうか。