湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

百年泥・その他

読書

 

百年泥」、読み終わった。

 

まず訂正。 

小説「百年泥」には「脱糞」という単語は一例も出現しません。

以下の読書感想文で「脱糞」と書いているのは、全部「脱翼」の間違いです。

お詫びして訂正いたします。ごめんなさい。m(. .)m

 

百年泥 第158回芥川賞受賞

百年泥 第158回芥川賞受賞

 

 

 

IT企業の重役たちが羽つけて自力飛翔通勤するインド。

しかも着陸時に脱糞ではなくて脱翼する仕様。

百年に一度の大洪水で街を覆った糞尿まじりの泥の中から無限に引きずり出されてくる、生々しい過去の事実。

 

もういない実母(人魚)と養父(借金取り)、そして彼らにまつわる記憶以外のものにはまともな愛着を育めない主人公が、他人の過去が充満した泥のなかに見出したものは、離人症的にリアリティを持てないまま形だけで暮らしてきた人生の情けないほどの虚しさで、その虚しさには強烈なリアリティがあっただろうに、結局また他人の人生に流されながら、それを切り貼りして繋いで生きていくのか、それとも別の生き方を選ぶのか、わかりそうでわからない感じで物語は終わった。

 

続きが読みたい。

 

 

先日読んだ「おらおらでひとりいぐも」に続いて、芥川賞受賞作が面白い。もう少し読んでみようかな。

 

 

 

ラノベ

 

芥川賞作品も恋愛ラノベも小説だけど、同じ小説でも読むときに脳にかかる負荷が全く違う。

 

たとえば「百年泥」で語られていることは、私が過去に読んだほかの小説と重なる部分があまりない。

 

主人公が付き合っていた男のせいで多重債務者になるという話は恋愛ラノベにもあったけど、主人公の母が喋ることのできない元人魚だったり、インド人の異様な目ヂカラで物理的に髪を焦がされたりすることはない。

 

そして何より恋愛ラノベでは、生きられなかったり選ばなかったりした不特定多数の人生が臭い泥の中から蘇って、ヒロインの抱える虚無を暴き出したっきり、物語をおしまいにしたりしない。

 

恋をして、よく知られているような艱難辛苦の末にそれが成就して、溺れるほどの幸福感をご祝儀として示されなければ、恋愛ラノベは完結しない。そういう様式の縛りを持っている。得体の知れない人生の真実をえぐり出して綴ることは、芥川賞作品ではない恋愛ラノベでは必要とされていない。むしろ必要ない。

 

でも、あまりに理不尽な境遇に置かれてしまったヒロインを見ていると(読んでいると)、そのまま芥川賞作品化してしまえと思わなくもない。

 

 

 

両親が他界し、一人暮らしをしていたヒロインの自宅に空き巣が入る。そのことで親切にしてくれた知人男性にプロポーズされ、それが憧れていた人だったため素直に結婚したものの、新婚旅行では別行動、新居で暮らしていても会話もなく寝室は別。食事を作っても食べてもらえないし、作る必要もないと言われる。勤め先が同じなので、顔は合わせるけれども没交渉。そのうち外野から不穏な情報が入ってくる。男性は社会人として体裁が悪いから偽装結婚しただけであり、別に好きな女性がいるのだと。

 

その時点で、ヒロインが離婚を決めて南インドに渡って泥探検をしようとしても、止める理由はないと思う。むしろそうして欲しかった。