湯飲みの横に防水機能のない日記

色々壊れてて治療中。具合のよくないときに寝たまま携帯で書くために作ったブログです。ほんとにそれだけ。

式子内親王の桐の葉の歌(新古今和歌集)

 

百首歌奉りし時、秋歌 式子内親王

 

桐の葉もふみ分けがたくなりにけり必ず人を待つとなけれど

 

(きりのはも ふみわけがたく なりにけり かならずひとを まつとなけれど)

 

新古今和歌集 巻第五 秋下 534

 

式子内親王は、1200年に後鳥羽院に依頼されて、歌を百首詠進している(正治初度百首)。

 

「桐の葉もふみ分けがたく〜」は、その中の一首。

 

式子内親王というと、百人一首の「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする」という、激しい恋の歌が知られている。

 

けれども、生涯独身で子どももなく、実際に恋愛経験があったかどうかも不明のようだ。

 

新古今和歌集には、女性としては最多の49首が収録されていて、歌人としての評価はとても高かった。

 

一方で、歌合などの行事に参加したという記録は、ほとんどないという。

 

引きこもり系の歌人だったのだろうか。

 

恋愛の噂はいろいろあったという。

 

そのうちの一人が藤原定家

 

彼の日記「明月記」に、式子内親王の記事がしばしば登場していたこともあって、後世の人々が妄想を爆発させて、能楽「定家」という、死後まで続くおどろおどろしい妄愛の物語を生み出してしまったりしている。

 

だけれど、二人が恋愛関係にあったという証拠はないようだ。

 

式子内親王は、1199年頃から重い病気を患っていて、「桐の葉」の歌を含む百首を後鳥羽院に詠進した翌年の1201年に薨去している。

 

「桐の葉もふみ分け」は、「秋庭不掃携藤杖  閑踏梧桐黄葉行(秋の庭は掃はず藤杖に携はりて、閑かに梧桐の黄葉を踏んで行く)という、白居易漢詩「晩秋閑居」の一節に由来する表現だという。

 

 

【毎度お馴染みの怪しい意訳】

 

桐の葉っぱって、無駄に大きいと思うのよ。

 

庭に溜まっちゃうと、掃いて捨てるのも、大仕事。だるくて、やってられないっての。

 

それにほら、どっかの国の偉いポエマーだかラッパーだかが、歌ってるじゃない?

 

「秋のお庭をおキレイに掃除するのはシャバい奴! 俺たちゃクールに葉っぱ踏み踏み歩こうZE! 桐とか最高!」

 

って。

 

クールかどうかはわかんないけど、掃除しない言い訳にはぴったりよね。

 

無精して掃除サボってるんじゃありません。

詩人の美意識なんです(キリッ)

 

てなわけで、桐の落ち葉、ずっと放っておいたんだけど…

 

積もらせすぎたわ。

踏んで歩くどころか、人埋まるわ、これ。

 

ま、いいんだけどね。

うちに来る人なんか、いないんだから。

 

あ、誤解しないでよね。

 

別にわざわざ桐の落ち葉で庭に歌人ホイホイを作って、たまたまうちに来た某歌人がズッポリハマって帰れなくなるのを期待してたとか、そんなんじゃ絶対ないからね!

 

 

………

 

本多平八郎氏による英訳は、だいぶあっさりした印象になっている一方で、「人」を「my lover」であるとして、恋愛色を明確にしている。

 

No. 534

 

Fallen paulowina leaves

make the path hard to tread,

through I wait not

for my lover.

 

Princess Shikishi

 

「THE SHIN KOKINSHU 英訳新古今集

 本田平八郎訳 北星堂 昭和45年 

 

【語釈】

  • tread…歩く。踏む。
  • paulowina…桐。
  • through…全く。徹底的に。

 

【訳】

 

桐の落ち葉が、小道を歩きにくくしている。

私は恋人なんか、ちっとも待っていない。

(だから、歩きにくくても、構わない)

 

この英訳を、AIイラストアプリ「Designer」に入力して、いくつか画像を作成してもらった。

 

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どの画像の桐の葉も、踏み分け難いほど積もってはいないようだけれど、来るか来ないか分からない恋人への複雑な思いが、それぞれに滲み出ているように思う。

 

 

 

 

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