今回は、失った恋を思いながら晩秋を過ごす歌。
(上の絵はAIのCopilotさんとの合作です)
千五百番歌合に
右衛門督通具
言の葉のうつりし秋も過ぎぬれば我が身時雨とふる涙かな
新古今和歌集 巻第十四 恋四 1319
(「新訳 新古今和歌集」水垣久 訳注 やまとうたeブックス)
【意訳】
秋の訪れとともに木々の葉が色を変えるように、あなたと交わした約束の言葉も、色褪せたかのように変わり果ててしまいました。
そんな秋も過ぎてしまったいま、私は時雨のように冷たい涙に身を濡らしながら、年を重ねていくばかりなのでしょう…
…………
右衛門督通具(源通具)は、後鳥羽院の歌壇で活躍した人で、新古今和歌集の選者の一人でもある。
正室は藤原俊成の養女で、俊成の息子である藤原定家とも親しく付き合っていたという。
この歌の本歌は、小野小町の歌だという。
今はとて我が身時雨にふりぬれば言の葉さへにうつろひにけり
古今和歌集 恋五 782
(「新訳 古今和歌集」水垣久 訳注 やまとうたeブックス)
【意訳】
二人の仲がダメになったいまとなっては、どうしようもないと、ただ泣き濡れて時を過ごし、身を古びさせていたら、降りそそぐ時雨に濡れて木々の葉が色を変えるように、あなたの言葉も愛に満ちたものではなくなってしまった…
…………
小野小町の歌と 通具の歌の二首を並べると、一人の人物の連作のようにも読める。
交わされた約束の言葉がなかったことになり、関係が途絶えてしまった晩秋の悲しみ。
季節が変わり、初冬の冷たい時雨が降るころになっても、まだ思いを引きずって涙を流している…
物語の一場面のような歌の世界に、当時の歌人たちは深く浸って、あるいはそのような悲恋の物語の主役になりきって、味わっていたのかもしれない。
(_ _).。o○
英訳のほうも見てみたい。
No. 1319
He promised to meet me in autumn, but it is gone.
And like a wintry rain fall now my tears.
「THE SHIN KOKINSHU 英訳新古今集」
Translated by H.H.Honda 北星堂 昭和45年
日本語に訳し直してみる。
【訳】
彼は約束してくれた。秋には会ってくれると。
でも約束は消え、秋は過ぎ去ってしまった。
そして私は、冬の雨のような冷たい涙を流している…
……
訳していて、アダモの「雪は降る」という古い歌を思い出した。
時雨じゃなくて雪だけど、同系統の感情を歌っていると言えなくもない。
和歌原文だけを見ていたら、たぶん、この曲を想起することはなかったと思う。
英訳では、「言の葉」が逢瀬の約束であると明示されている。
一方で、「降る」に「古る(歳を重ねる、老いる)」の意味がかけられていることや、「言の葉」が「うつる」に紅葉のイメージが重なる点については、訳出されていない。
そうした和歌らしい含意を削られていることが惜しいと思う反面、和歌ではやんわりと示唆されるだけの背景事情を、「He promised to meet me」と、明確にえぐりだして見せてくれる英訳に、ある種の爽快感を覚える。
こうして英訳と比較すると、和歌の特質みたいなものが、浮き彫りになってくる。
具体的に何があったかを明確には語らなくても、「言の葉のうつりし秋」と言っただけで、中世の歌人たちは、
「晩秋になって、恋人に飽きられて逢ってもらえなくなった件」
という、身も蓋もない背後事情を読み取ることが出来てしまうのだ。
和歌は、長い歴史のなかで培われ、言葉に紐づけられてきた、様々な文脈やイメージを深く共有する集団の中で成立する芸術なのだろう。
そしてそのことが、和歌を外国語に翻訳する際の大きな障壁にもなるのだろうと思う。
けれどもこの数日、英訳された和歌に触れていて、翻訳されたことによって生じる、和歌の新たな魅力に気付かされている。なんというか、純粋に「面白い」のだ。
時代が変わり、言葉も変わり、過去の歌人たちと共有できる文脈やイメージがほとんど失われてしまっても、和歌に込められた詩情は確かに伝わってくる。読み解くための努力や知識は必要だけれど、そんな努力や知識の習得さえも、楽しくなってくる。
つくづく、不思議な芸術だと思う。